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2017年01月28日(土) ■ |
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『ザ・空気』 |
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二兎社『ザ・空気』@東京芸術劇場 シアターイースト
事前に紹介されていたあらすじや宣美の雰囲気からはユーモアを感じていたが、実際舞台に載っていたものは作家の怒りと悲しみだった。骨太です。
笑えるところがない訳ではない。滑り出しは牧歌的とも言えるくらい。アンカーからものいいがついた報道番組の特集映像。自粛の空気に右往左往する編集長、ディレクター、キャスターと、仕事の内容に疑問を挟まない編集マン。生放送の時間は刻々と迫る。かくして特集の主旨が変化していく過程は滑稽でもある。
しかし作者はじわじわと細部を詰めていく。笑ってる場合ではない。自分と関係ない、事実を報じないことは表現の違いだと言い換えることがどんなに危険なことか。それを描く。「完全な中立なんてものはない、主張はどちらかに必ず寄る」。かつて『アルゴ』の感想に「ニュートラルに徹している」と書いたとき、表現することに「ニュートラルなんてものはない」と暗に指摘されたことを思い出した。確かにそのとおりだ。
頻繁にかかってくるイタズラ電話、メールで届く隠し撮りの画像。それらが拡散されていく恐怖。個人情報や家族が人質にとられる。報道マンとしての使命は個人の事情に押しつぶされる。命を落とす者、組織を離れる者、そして組織に同調する者。本人がいくら自分は自由だと主張しても、ひとはどこかに属し、繋がれている。議論が深まるかと思った瞬間鳴る携帯、どの階も同じ顔のエレベーターホールといった描写も効果的。上層部だけではない、世間の監視だけではない、彼らはあらゆる風景に疲弊していく。
座組もいい。個人名は出ないものの具体的な法案、公職についての指摘が多く、マスコミ現場ならではの符丁も少なくない台詞群。説明的になりがちなこれらを会話として滑らかに、しかし問題点にはエッジを利かせて観客に届ける技量を持つひとばかり。田中哲司は自分を追い込むような作品に出演することが多い印象。彼の役者としての矜持が、役に重なる。このひとの魅力は、ヘヴィーな役を演じても重さ一辺倒にならないところだ。演じる人物の心の揺れにチャームが宿る。だからこそ、その人物の抱える問題を身近に感じ、自分とは無関係ではないこととして観ることができる。若村麻由美のしたたかさの裏にある苦悩の表現も見事。こうして生きていくしかないのだと思わせられる。上層部に振りまわされる立場にある江口のりこと、振りまわされる立場に嬉々としてのっかっていく無責任な大窪人衛、ふたりの対比もいい。このふたり、声も対比になっているように感じられてそこもみどころききどころ。
それにしても木場勝己の(役の)食えなさ加減な…あてがきか! と思ってしまうくらいでな……というと木場さんに失礼だがそう思わせられてしまう巧さよ。『海辺のカフカ』のナカタさんを演じたひとがこういう役も演じるんだもの、役者とは……と思ってしまう。いや、素晴らしかったです。彼の言うことも一理あるな、と思わせられてしまう場面もあり、ああ、永井愛はどちらの都合も描くなあ、中立とは……と思いはじめたところにブッ込まれる「女子アナのころはかわいかったんだけどな」「俺だけに話してくれたオヤジの裏金問題、俺は決して書かなかった」という台詞。あー、おまえはそういうやつな。これがおまえの矜持な。ここに作家の「寄り」がある。
希望はふたつ。ひとつは最後の場面で「調査報道」について触れたこと。これは『スポットライト 世紀のスクープ』からヒントを得たのではないだろうか。もうひとつは、この作品が『都民芸術フェスティバル』中のプログラムとして上演されていることだ。エンタメの力をまだ信じられる。
いつかはエンタメも「空気」を読んで自主規制するようになるのだろうか。いや、実際にそういうことは既に多々ある。どの時点で諦めるか。それとも怒りを持ち続け、発信し続けるか。作家の矜持もしかと受けとりました。
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・永井愛にインタビュー〜二兎社公演『ザ・空気』|SPICE
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