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2016年05月14日(土) ■ |
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『太陽』 |
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イキウメ『太陽』@シアタートラム
2011年に初演、2014年に『太陽2068』として蜷川幸雄演出版が上演。そして今年は映画の公開と前川知大本人の手による小説が刊行されたタイミングでの再演。比較する感想も書くがそれは解釈の違いとして興味深く観たもので、優劣はない。
個人的にいちばん気になっていたのはハコのこと。初演の青山円形劇場からシアタートラムでの上演となった訳だが、もし今も存続していたら再演も円形で行われたのだろうか、なんてことを考える。トラムの装置は段差が大きく組まれ、主に上層でノクス、下層でキュリオの生活が描かれる。『太陽2068』ではそれが逆で、下層=地下は夜に生きるノクス、上層=地上は太陽の恵みを享受するキュリオという図式。今回は生活格差として観ることが出来た。美術はイキウメ常連、土岐研一。
円形ほど演者を近くには感じない。その分落ち着いて観られたというか、恐怖や怒りが先に立って見逃しがちな箇所に気付くことが出来た。初演の森繁が手首を切り落とされる場面は本当に恐ろしくて、席を立ちたい、ここから逃げ出したい、と迄思ったのだった。位置的にも目の前だったのだ。観劇でそんなふうに思ったことは初めてで、今でもその気持ちをまざまざと思い出す。今回ちょっとひいて観られた分、一見呑気な森繁と、純子と鉄彦の母子らしいやりとりに和むことも出来た。そもそも和むシーンではないが、実際こういう切羽つまったときはどうでもいいことが気にかかったり、振り返ればアホかというようなことを口走ってしまうものだ。自殺(と言っていいだろう)を試みる金田に対して、草一が「迷惑なんだよ」を言い放つ場面でも客席から笑いが起こった。
そう、今回人間のポジティヴな面をより見出せた。絶望的な人類の未来だが、日常はちょっとしたことで牧歌的になる。前川さん作品にはよく、自給自足、地産地消についての考察のようなものが出てくる。ちいさなコミュニティで、それぞれがやっていけないかというようなことだ。理想ではあるが、それが難しい。歪みが起こるのはどの段階か、繰り返し検証しているようでもある。そこから社会、環境、身体から生じる差別を辿る。人間の善性に光をあてる。すると当然影が出来る。ふたつは切り離すことは出来ないのか? そこ迄考える。どの人物にも自分がいる。
自分の興味が今そこにあるのか、あるいは震災から四年が経ち、熊本と大分の地震があったばかりということもあるのか、土地=故郷を離れられないひとたちの台詞がより印象に残った。長年暮らした場所を離れられないのは何故なのか、そんなにいやなら出て行けばいいだけだと気軽には言えないのはどうしてなのか。その在り処を見せられたような気がした。今回から参加の中村まことの、がらっぱちな楽観性(ほめてる)に救われた思い。それだけに、あの父娘の別れは胸に迫った。
蜷川さんの訃報から二日後に観た。そうでなくても『太陽2068』のことを思い出し乍ら観ただろう。演出により脚本の世界がこうも違って見えるのかと驚き、楽しみ、いろんなことを考え乍ら観ただろう。それがもう出来ない。観劇中に、これだけ喪失感に襲われることはこの先もうない。蜷川さんのことはいずれ。
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