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2016年05月04日(水) ■ |
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『スポットライト 世紀のスクープ』 |
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『スポットライト 世紀のスクープ』@TOHOシネマズ新宿 スクリーン11
言葉の置き換え。調査をかいくぐる巧妙なものから止むに止まれぬ優しさによるもの迄。言葉を駆使し、記者たちは取材する。インタヴューを繰り返し、記事を書く。辛抱強く、丁寧に。事件を一瞬の祭りではなく、忘却へ向かわせないために。再発を防ぐため、システムを変えるために。
記憶の置き換え。記者たちには後悔がある。虐待についての資料は何年も前に新聞社に送られていた。その資料の実物も、記憶も「もっと大事なことがある」と目の届かないところに追いやっていた。調査の精度をあげるため掲載を見送った数週間、その間に新たな被害者が生まれてしまった。彼らにとって、これらはスクープを他社に奪われてしまうことよりも堪えた筈だ。記者たちの顔をカメラは静かに捉える。この後悔を忘れない、これからこんな後悔をしてたまるものか、という顔を。
きっかけというものを考える。“よそ者”の編集局長が赴任してこなかったら? 定期購読者の53%を占めるカトリック信者を前に尻込みしたままだったら? 辛抱強い取材の賜物とはいえ、意外にも口を開くひとが多かったという事実。記事にならずとも噂は隠されない。ひとの口には戸が立てられない。訊けば応える、皆どこかできっかけを待っていた。素朴な疑問として、続報を要求した編集局長の果たした役割は大きい。
サヴァイヴァー、生存者と言われるひとたちのことを考える。神父たちの行為は性的虐待、いたずらという言葉に置き換えられるようなものではない。しかし被害者はその内容のおぞましさと羞恥から、加害者は自己弁護と罪悪感から曖昧な言葉にしてしまう。間に合わなかったひとたち、既に死んでしまったひとたちのことを考える。心は実際死んでしまう。死んだ心は身体の生命力も奪う。それがどういうことなのか、記者たちは言葉で伝えようとする。
調査報道のたいせつさ。タブーに触れた記者たち、そしてこれを映画化するアメリカという国の強い意志。歴史が浅いからなのだろうか? 私たちはこうしていかなければならない、世界をよきものにしていかなければならない、という高い理想がアメリカにはある。それは今さまざまな軋轢を生んでいる。ここらへん、翌週観た『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でのキャプテン・アメリカにも感じたことだ。この物語には、彼のようなヒーローはいない。しかし何かを変えることは出来た。理想を実現するために、どのように歩んでいくか。見失ってはいけないものは何か。
AOLの企業看板が映るシーンがある。ああ、この頃ポータルサイトといえばAOLだったな、と思った直後、9.11の場面になる。あれから十数年が経った今、報道のあり方ついて考える。情報のたいせつさはその速さにあるのではない。情報が情報となりうるために必要な時間を、今どれだけ確保し守ることが出来るか。情報を受けとる側の姿勢も問われる。
そして宗教と信仰。持論だが、信仰というものは神(と呼ばれる存在)と自分だけの、一対一の約束だ。約束する相手は神父ではない、教会ではない。そのことだけをしっかり覚えていれば、信仰は教義ではないと気付くことができる。礼拝とか伝道とか寄付とか、そんなことではない。教会があるとすればそれは心のなかで、神父は人間だ。
サヴァイヴァーと一緒にこの映画を観た。彼女は、記事の掲載された新聞が印刷される場面から泣き続けた。真実が明かされ、世間へと開かれていったことが嬉しかったのだと言った。肉体が生きていさえすれば、一度死んだ心も再生出来る筈だ。そうでなければ。
構成と台詞の応酬が素晴らしい。舞台でも観てみたいなあと思った。実現したら日本版の上演台本と演出はスズカツさんがいいな(ことだまことだま)。
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・(フロントランナー)米紙ボストン・グローブ記者 マイケル・レゼンデスさん、サーシャ・ファイファーさん 調査報道にスポットライトを:朝日新聞デジタル 「政治家の言葉をニュースとして報じるより、ニュースを掘り起こし、作り出す調査報道の方がずっと面白くて意義がある。これぞ記者のだいご味、自分のやりたかったことなんだ」 モデルになった記者たち。地道な取材は600本もの記事になった。 レゼンデスさんはアカデミー賞授賞式にもいらしてましたね。映画のなかで彼にあたる人物がランニングをしているシーンがあるが、実際の彼の趣味でもあるとのこと。爆破テロのあった2013年のボストンマラソンにも出走しており、ランナー姿のまま取材へと走ったそうです
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