I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME
|
|
2014年11月15日(土) ■ |
|
『いくつかの方式の会話』『皆既食 ―Total Eclipse』 |
|
FESTIVAL/TOKYO 2014 アジアシリーズ vol.1 韓国特集 多元(ダウォン)芸術『いくつかの方式の会話』@東京芸術劇場 シアターイースト
1941年生まれの女性の個人史を、1980年代生まれのアートチーム『クリエイティブ・ヴァキ』が検証、韓国の現代史に迫る。ここ九ヶ月で観た韓国映画のあれやこれやがすごく役立った…日付が出ただけで光州民主化運動だ! と判ったり(笑)。
彼女の個人史を三人の役者が体現する。見掛けは若者、語られるのは太平洋戦争、朝鮮戦争、敬愛する大統領(現大統領の父親)とその夫人の話。日々の生活。識字は独学。七十四年(韓国の年齢は数え年です)、どうやって日々の糧を得、こどもを育て、生きてきたか。日本との関わりも大きく、客席はひとしきり笑った直後しんとなる。日本上演用に新しく加えられたエピソード、演出の一部としての字幕デザインも面白かった。韓国に限らず、外国から日本はこう思われているのだろう。
後半、女性本人が登場する。ゴールドシアターを観ていることもあり、その身体の説得力に感銘を受ける。役者ではない彼女の動きや表情に見入る。政治に翻弄される、顔の見えない民衆のひとりが目の前に立っている。本編で言及される絨毯や人形等、持ち込まれている小道具は、彼女が日常で使っているものをそのまま持ってきたものだろう。自国の世界での立ち位置等鋭い指摘は、シンプルな言葉だけに重い説得力がある。見事な構成、演出でした。軽快なスタイルであり乍らかなりの見応え。
よだん。その女性、イ・エスンさんはヨガをやっているとのことで、そのポーズも披露。あの歳であの身体のやわらかさ! 絶対私より身体が曲がる(笑)よ、ヨガやりたい……。
****************
『皆既食 ―Total Eclipse』@シアターコクーン
役にぽんと身を投げ出す。乾いた演技で、過剰な叙情を一切挿まず、役への献身を示す生瀬さんと岡田さんが素晴らしい。あのランボーとヴェルレーヌの話なのでいくらでもウェットに出来るし、嘲笑の対象にすることも出来る。蜷川さんはそうしない。懸命に生きる人物をただただ見詰め、その行く末を見届ける。「(演劇など)軽蔑にも値しない」と言う台詞を舞台に載せる、その醒め方には恐れ入る。作品と登場人物、そしてキャストへの愛情と尊敬。この出演者とこのスタッフが揃う幸運と贅沢を、失ってから気付くのでは遅過ぎる。
まっすぐな喪失の物語。『わたしを離さないで』でも強く感じた、蜷川さんの描く痛切な“別れ”と“追憶”。大切なものをそっと掌で包み込むような、繊細で静謐、そして胸に迫る舞台。
パンフレットでも言及されているとおり、ランボーは万人が頷く美しさではなかった。しかし彼の詩に触れたひとは、誰しもその虜になった。舞台上にいるのはランボーの実体ではなく、ランボー自身が紡いだ詩と、ヴェルレーヌが人生を賭して描写した彼の追憶から成されたものだ。舞台に立つにあたり、その追憶の人物に肉体と感情を与えなければならない。岡田さんはその人物に血を通わせた。在りし日の歌のなかに生きる詩人がそこにいた。初舞台とは思えない身のこなし、“届く”声にも驚く。それらは終演後に改めて思ったことだ。つまり彼は、登場人物として見られる集中力を観客に与えてくれる力を持っていた。
中盤と終盤で繰り返されるひとつの事件。死を前にしたヴェルレーヌが思い起こすその場面で、ナイフはキスへと姿を変える。魂よりも身体を欲すると口にしていたヴェルレーヌは、追憶のなかでランボーの魂を抱きしめている。そしてその追憶は幻想だと自分でも気付いている。これらの距離感を体現する、生瀬さんの醒めっぷりが見事。アドリブかどうか判断に迷った「鼻血」などは、他の誰の目もないふたりきりの部屋で、寝室で確かにあったであろう睦まじいやりとりとしてひとときの安堵をくれる。ふたりの別れを決定的なものにした発砲事件、それにまつわる裁判は現代でもスキャンダラスなものだっただろう。その渦中にあって夢のなかにいるかのようなヴェルレーヌの佇まい、表情にも、距離感が顕れる。役を通した自分をも対象として見ているかのよう。
舞台が始まった早い段階で身重の妻を殴り倒し「あーあ、そういうやつな、おまえは」と観客に周知させているのに、生瀬さんの演じるヴェルレーヌにはどうしようもない魅力がある。それはこの作品が、ヴェルレーヌを含めた全ての人物を追憶の対象として描き、その“美しい魂”の都合の良さを生瀬さんが身体に落とし込んだからだろう。
このふたりのコンビネーション、彼らの地獄の道行きに花を添える(その交感がどんなに哀れなものであっても、花は花なのだ)登場人物たち。その人物たちが生きる場の美術、照明、音響。中越司さんの美術は、場内に入った途端にため息が出た。大きな窓とカーテン、姿なき風。目に見えるものが、目に見えないものの存在を認識させる。それは大人数投入されている(なかには出演者もいたそう)転換のための黒子も同様で、目に見えない(筈の)彼らの働きにより、登場人物たちは場所や時間を行き来することが出来る。パンフレットのリハーサルショットでは、井上尊晶さんの姿が目に留まる。
ナイフは蜷川さんにとって重要なイメージでもある。最近、『演出術』を再読している。演出手法、表現方法に変化はあれど、常に演出家の意識の底には千のナイフと千の目を持つ観客がいる。観客は、このナイフを拍手と言うキスに替えることが出来る。演出家とともに歩んできたスタッフ、カンパニーへ贈るキスだ。このカンパニーでこの作品を観られたことに、感謝の拍手を贈りたい。
|
|