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2014年05月03日(土) ■ |
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『わたしを離さないで』 |
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『わたしを離さないで』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
原作、映画、舞台の順で観ています。蜷川さんとの相性はいいだろうなーと思っていました。『タンゴ・冬の終わりに』や『聖地』の幕開けにヤラれた憶えのあるひとは、今回のオープニング、エンディングはかなりクると思います。神の使いと言えばいいだろうか、かつてそこにあった人間たちの営みを上空から眺めることの出来る存在が、膨大な時間のあとにやってくる。そこには既に誰もいないが、彼らが存在した記憶は確実にそこに残っている。命の名残を見やり、神の使いはその場を離れていく。そして二度と戻らない。
若者たちの追憶の光景、死に魅入られた光景。世界が終わりを眺める光景。これを描かせたら、蜷川さんの右に出る者はそうそういない。さい芸の奥行きある舞台機構が活きています。ホームで使っている強み。
倉持裕さんによる上演台本は、原作から、二度と戻ることの出来ない時間の残酷さを丁寧に抽出しています。舞台を日本に移していますが(ヘールシャムが太平洋側、宝岬が日本海側と言うのは実感がわきやすい)、閉鎖的な世界で命を全うする若者の姿は変わりません。若者たちがちいさな世界から外を眺め、やがては全てを受け入れていくさまを淡々と、しかし緻密に描いていく。直接的な言葉も特徴で、原作ではミステリ的にぼかされていた何を「提供」するのかが早くも一幕で具体的に語られます。その言葉を受けたこどもたち――八尋と鈴の反応に胸を締め付けられる。ヘールシャムの生徒たちは使命感すら持ってその事実を受け入れていますが、そこに痛切さはなく、ただただ淡々としている。運命とはこういうことなのかと、途方もない悲しさと虚しさが襲ってくる。三幕、3時間45分の上演時間で、彼らが生き抜く時間をともに歩む。彼らをだいじに丁寧に見守り、どうすることも出来ない悔しさをも抱えて時間は過ぎる。
その淡々とした対話が“保つ”。主演の三人の力量はかなりのもので、耳を傾けずにはいられず、その言葉ひとつひとつを聞き逃したくないと思う。瑞々しさと凛々しさと、それでも吹けば消えてしまいそうな儚さが絶妙なバランス。愛情と友情、ともに同じ運命を抱える同志とも言える共感。「私たちには時間がない」と言い乍ら、取り返しのつかないことを繰り返してしまう。そのヒリヒリするような危うさは、時には美しくすら映る。もとむと八尋がカセットテープを探しに行こうと相談する堤防のシーンも出色。ラストシーンにも登場する八尋が最期に思い出す光景でもある。舞台にはふたりきり、装置は堤防とそこにぶつかる水しぶきだけ。これがやはり“保つ”。
多部未華子さんは残酷な世界を真正面から受け止める強い輝きを放ち続け、木村文乃さんはキツい役柄をブレずに演じきっている。三浦涼介さんが演じるもとむと言う人物はかなり難しい役どころだと思うが、その不安定な要素の肝所を押さえていて、自然と心が寄ることが出来た。感情の起伏が激しく先生もクラスメイトも手を焼く問題児だが、決して荒くれ者ではない。つかみどころがない彼が終盤爆発するシーンで、そのぼやけていた人物がしっかりと像を結ぶ。あとちょっとしたことだけど、三浦さんのヘアメイクもかなり効果的だったように思います。公演前の宣美で見られたものと違い、眉が隠れた前髪。眉が見えないことで、感情の動きが見えにくい。次どう出るか判らない不安定さを表現するのに非常に役立っていた印象を持ちました。
この2014年に上演されたことで新しく感じたこともあった。臓器提供を受けずとも、他の方法で人体を維持、再生する可能性が新しく発見されている時代だからこそヘールシャムは閉鎖された、と言う選択肢がより現実的になった。人道的な問題から反対が起こる、と言うだけでなく、そういう「提供者」すら必要としなくなる時代が来る。冬子先生のように、使命に燃える者ならではの一種の狂気すら無効になる。果たしてその向こうにあるものは何か。「新しい世界がやって来る中、古い世界を必死に抱えている少女」、少年たちはどこへ辿り着くのか。作品で愛を証明するなんて夢のような噂を信じるしかなかった彼らのことを思うと苦しくなる。
序盤に登場した「提供者」内田健司さん、農場の先輩カップルを演じた堀源起さんと浅野望さんは、静かに確実な印象を残しました。て言うかネクストの皆すごくよかった(涙)ニナカンにはもはやなくてはならない集団。彼らネクストの面々をはじめとする若手、それを見守る大人たちの親密さをひしと感じる舞台。息を呑んで彼らを見守るような、集中力の高い観客席にいられたことも幸運でした。あの静けさ、奇跡的なコンディション。半ば呆然として劇場を出ました。
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