I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
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2013年06月08日(土) ■ |
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『つく、きえる』 |
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『つく、きえる』@新国立劇場 小劇場
ドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒが、東日本大震災後の現代日本を描いた新作、初演。演出は宮田慶子さん。新国立劇場では四年前にシンメルプフェニヒ作品『昔の女』を倉持裕さんの演出で上演しています。日本の震災を受け脱原子力に踏み切ったドイツに住む作家は、福島へ取材に出向き今作を書き上げたとのこと。
タイトルにもなっている「つく、きえる」。停電を表し、そして命の灯火を表しているようです。震災により露になる、電気と命の儚さ。亡くなった者と生き残った者、両者の間には膨大な時間が横たわる。まだ二年しか経っていない?もう二年も経ってしまった?物量では測れない隔たりがそこにはあります。上演時間は105分程でしたが、体感時間はとても長かった。特に二幕。絶望的な状況がこれからずっと、長く長く続くこと。それはあまりにも重い。作家は「コメディをやろう。恐怖には笑いをもって立ち向かおう」と思ったとプログラムに書いていましたが、それはとてつもなく困難なことでもあると感じました。今回笑いとともに観たのは一幕のみ。まさしく震災が起こる前、の情景だけだったのです。
四組の男女。夫婦が三組、これからつきあうかも、つきあっているかも?と言う若いカップルが一組。若いカップルの男の子「眼鏡をかけた若者」はホテルで働いている。ホテルには三組の夫婦がシャッフルされてやってくる、つまり三組とも不倫をしている。彼らをフロントで受け付け、合間に若者は高台で仕事をしている恋人「自転車を持っている娘」にメールを送る。いかにふたりのイメージが合わないか、ふたりの様子が違うものか。それでもどれだけ彼は彼女のことを愛しているか。ホテルの三部屋ではそれぞれの男女がお互いの心境を探り合い、それぞれの夫や妻のことを思い起こす。会話とともに、彼らの姿は変容していく。頭を二つ持つ女、口のない男、石になった女、燃える心臓を持つ男、蛾、死んだ魚。やがて大きな揺れと、大きな波。三組の夫婦は向かい合ったり触れ合うことが出来るが、眼鏡をかけた若者と自転車を持っている娘は物理的にも立ち位置が違う。二層になった舞台の同じ階層にいることがない。若者は叫ぶが、娘の耳にそれは届かない。
アナウンス(あるいはテロップ)とともに場面が変わる、時間がスキップ、ジャンプすると言う構成は『昔の女』でも使われていたので、演出によるフックではないと思いますがどうなのでしょう。ドイツから見た日本、ドイツ語で書かれたテキスト、それを日本語に訳した台詞。当然のように言葉遣いが翻訳調になる不思議、そしてダイアログがモノローグに聴こえる不思議。思いのすれ違いにも感じる。二幕の登場人物たちは生きているのか、死んでいるのか定かではありません。暗闇のなか、会えない相手を捜して歩く。最後のメールを何度も読む。電気が途絶えると灯りは消える。充電が切れれば、やがてメールも読めなくなるだろう。
役者陣の試行錯誤、登場人物を演じることへの苦しみが透けて見えるよう。痛切に溢れた二幕がやはり強烈だった。ただただ鎮魂を祈るばかり。始まったばかりなので上演を重ねるにつれ変化があるかも知れない。それはブレと捉えられるかも知れないが、この作品に関しては演者の「揺れ」がさまざまな解釈、発見を照らし出すと言う意味で重要にも思えます。気になるところ。
ホテルのロビーに飾られている、北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を模した大波の映像が自転車を持っている娘に向かってくる。背景にもなり、心象風景にもなるさまざまな映像には目を見張りました。閉塞感に満ちたキューブ型のホテルの部屋も素晴らしい。誰だとチェックしたら『負傷者16人』のコンビ、土岐研一さんの美術と冨田中理さんの映像でした。
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よだん。
・二幕終盤で座席が揺れだして、上演途中の地震には正直慣れてしまっているのでさほど気にせず、しかし芝居の内容が内容だったこともあり若干緊張しつつ、どこ迄揺れたら芝居が止まるかななんて思っていたら、隣席のひとの貧乏ゆすりだった。おまえ…すーごい揺れたで……
・それにしてもこの「慣れ」。自分でもどうかと思う。ただなんと言うのか、これは地震が日常になっていると言う「慣れ」以外に、「非常口はどこだ」「水は持っていたっけ」と言ったことを瞬時に思い起こす「慣れ」でもある
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