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2010年01月16日(土) ■ |
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『能楽現在形 劇場版@世田谷』『ソコバケツノソコ』 |
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SePTハシゴ。
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『能楽現在形 劇場版@世田谷「能は能か、演劇か」』@世田谷パブリックシアター
半能『高砂 八段之舞』 、能『邯鄲(かんたん)』。
『高砂 八段之舞』から。高砂と言えば結婚式等で謡われる「高砂や〜」が有名で、『高砂』も祝言の能と言われるもの。今回は半能と言うことで、本来の構成の後半のみ、“神舞”が中心となった「八段之舞」の部分。「高砂や〜」から連想されるゆったりとしたイメージとは随分違い、かなり激しい舞と地謡でした。住吉の松の神の化身が長寿と世界の平安を祈って舞うもので、新年と言う雰囲気もあり、シャキッとした気持ちになりました。いいもの観た。
『邯鄲』は、仕舞の方を昨年なかのZERO能で観たのですが、今回初めて能の構成で観ることが出来ました。今で言うニート?(笑)の若者がこれではいかんと旅に出て、途中の宿でそこのおかみさんがごはん作るから休んどきなさい、と枕を渡す。これが“邯鄲の枕”です。若者はその枕に頭を預けて眠ると、帝がやってきてあんたに今の地位を譲るよ、と言う。若者はあれやこれやの楽しいことを過ごし、五十年の月日が流れる。舞を踊って眠りにつくと、おかみが起こしに来る。「粟が炊けましたよ」。所謂胡蝶の夢です。能楽堂とは違う演出でやるのが『能楽現在形 劇場版@世田谷』、舞の台がせりになっていたり、照明も天井から吊るす等面白い趣向でした。三階席の上手側から観たのですが、両端に演奏者が分かれており、上手側に地謡、下手側に楽器だったので、演奏者をよく観ることが出来ました。鼓や太鼓の楽器陣は叩き乍ら合いの手を入れるので、そのタイミングも確認出来て面白かったです。
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SePT独舞 Vol.20 黒田育世×飴屋法水『ソコバケツノソコ』@シアタートラム
反復。反復。生きること。
チケット確認したら「全席自由(オールスタンディング)」と書いてあり、「トラムで?」「ダンス公演で?」といろいろな「?」を抱えつつ入場。トラムの座席をとっぱらいフリースペースにしていました。関係者用か後ろの数列のみ座席が残されており、そこと演技スペース以外であればフロア部分のどこから観てもいい。上演中に移動してもいい。実際には流石に動きづらく一箇所で観てしまったのですが、フロア全体を使う作品だったので死角もあり。つい普段のトラムで観る感覚で、普段ステージがある方向を前と設定し、そちらに向かい合う位置から観てしまった。演技スペースは流動するので、見えるところと見えないところがある。この「死角がある」限定観測は、逆から言えば、「自分だけしか目に出来なかった視界」でもある。聴きとれない言葉も沢山ある。「自分だけしか耳に出来なかった言葉」が拾われる。
普段ステージがある側の上手側に音響卓と飴屋さん。飴屋さんは自分で音響操作をするのだが、普段の劇場だと客席後方に卓があるので、どういうふうに音を入れているのかを見ることが出来ない。今回それを目に出来たのが楽しかった。下手側の壁面に、黒田さんの幼い頃のスナップ写真がスライドで映し出される。(自分の位置から)下手側手前に、黒田さんの衣裳と飲料水、その他小道具が運び込まれる。下手側後方からくまが登場する。上手側手前に会話をするスペースが出来上がる。下手壁面にはいつのまにか老女がおり、あるシークエンスで演技スペースに入って来る。黒田さんをじっと見詰める老女は、スタッフに促されて退場する。
その中で黒田さんは踊る。「踊ります」と言って踊る。跳ぶ、足首に鈴を付けて踏み鳴らす。フロアを噛むように踵を叩き付ける。まるで泣いているかのように(実際に泣いていたのだろうか)叫ぶ。「バケツの底で、あのひとに会いました」。他の出演者と関わり、世界と関わる。そこに身体は不可欠だが、魂のようなものの触れ合いも存在する。
『3人いる!』『4.48サイコシス』のメンバーも参加していた。立川さん、村田さん、クルクさん。くるみちゃんも。序盤流れるテキスト朗読の声を聴いて、あ、あのひとだ!と思う。出て来たひとを見て、あ、あのひとだ。あのひとだ。と思う。なんだか勝手になつかしさも感じてしまった。実際にはこちらが見ているだけで、話したことすらもないのに。
しかし村田さんの声は素敵だなあ。一度聴いたら忘れない声。
立川さんがいちばん動く…と言うか、沢山の役割を抱えている担当で、黒田さんと対峙するかのようにマイクでアジテーションしたり、くまをつれてきたり(この時立川さんのしていたマフラーが、マタギの装束に見えた…笑)、今回の作品のテーマであるらしい(配布されたリーフレットに掲載されていた)『大きなこびと』を朗読する。終盤、立川さんと村田さんが並んで『大きなこびと』を朗読するのだが、それには一定の振付が付いている。向かい側ではクルクさんが、恐らくふたりとは違う振付動作をずっと続けているのだが、それは死角になっていたので実際どんな振付だったのか定かではない。彼が足首に付けていた鈴の音だけははっきり憶えている。目は立川さんと村田さん、黒田さん、飴屋さんを、ひたすら追っている。視点がめまぐるしい程に移動する。
反復。反復。立川さん、村田さん、クルクさんは動作を繰り返す。途中黒田さんが、立川さんと村田さんにそれぞれブランケットとチュチュを被せる。立川さんおばけみたいになった。村田さんライオンみたい。チュチュって下から見るとライオンみたいなんだ。フリル部分がたてがみで、脚を出すところが目、股の部分が鼻。なんだかかわいらしいふたり。飴屋さんの作品に現れる反復は、時々キュートでチャーミングだ。動作は繰り返され、静かな足踏みの音、毛布とチュチュ、身体の擦れる音が続く。反復は決して同じにはならない。毛布がずり落ちてくる。脚の位置が変わって来る。生きることは反復だが、決して同じことは出来ない。この日、この時にしか存在しないもの。
序盤、黒田さんのインタヴュー音声が流れる。どこで生まれ、育ち、バレエを始め、バレエから今の踊りに到ったか。それは黒田さんが反復を繰り返し生きてきたから辿り着いたもので、同じ道を他者が辿ることは決してない。自分は自分でしかなく、同じ他者というものは絶対に存在しない。それを観ている自分も、他にいない。しかし自分と他者は繋がっている。黒田さんは最後に「私の名前は、ハットリミキさんです」と言う。これは恐らく序盤、黒田さんがひとりの観客に話し掛けていたシークエンスに繋がる。彼女はその観客に、名前を尋ねていたのだ。そして黒田さんは、最後に「ハットリミキ」と名乗る。演者と観客の繋がりが浮かび上がる。『大きなこびと』の「ぼく」は、「名前がな」かった。その「ぼく」が、最後に観客の名前を名乗る。自分は他者には決してなれず、その反対もそうだが、繋がることは出来る。「昼間の星は、どこにいるの?」目に見えないけれど、そこにいる。いつでもいる。
飴屋さんの作品は、いつもこういうことを考えさせられる。演劇(今回はダンス公演だが。ライヴと言ってもいいかな)は反復の作品でもあるが、同じものは決してない。しかしそれは生きることに繋がっている。反復。反復。生きること。それは時々キュートでチャーミング。
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テーマ的な位置づけの曲がジョアンナ・ニューサムだった、確か。探してみよう。
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