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2009年09月05日(土) ■ |
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『S高原から』 |
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南河内万歳一座『S高原から』@こまばアゴラ劇場
南河内と青年団がお互いのレパートリー戯曲を交換して上演してみよう企画。両者のカラーを知るひとからすると、なんじゃそりゃー!てなもんですよね…情報知った時興奮したもん(笑)即チケットとりましたよ。
と言う訳で、まずは世界一やかましい『S高原から』。サナトリウムでの一日の風景を描いた平田オリザさんの戯曲を内藤裕敬さんが演出。体育会系、プロレス同好会が母体(笑)の南河内がサナトリウム…もう面白い(笑)青年団の上演は残念乍ら未見なのですが、事前の内藤さんと平田さんの対談によると「ホンをそのままやります」とのこと。しかし場所はサナトリウムではない、と。以下ネタバレあります。思ったよりやかましくはなかったです(笑)
サナトリウムと呼ばれている場所、そこはホームレスの集落(に見える)。ビニールシート、段ボール、ボロ板等で作られた建物だ。そして内藤さんは全く台詞のない役で出演、空き缶を大量に詰めた袋を積んだ自転車で幕開けと幕引きに現れる。内藤さんの演出意図はこの枠組みのようです。これが不思議と「ホンをそのままや」っても、違和感がない。
“サナトリウム”に入院しているひとたちは何らかの病気であるらしい。しかし感染するものではない。外見で病状の進行は判らない。告知契約をしているひととしていないひとがいる。契約上本人に告知されていなくても、院内の噂で本人以外が余命を知られている場合もある。余命の具体的な数字は出て来ない。しかし多分告知されていないとされる本人は自分の寿命を知っている。医師や看護師が明るい立ち居振る舞いで患者たちと交流している。患者たちは病気の為に婚約が破棄になったり、恋人だと思っていた“友達”に捨てられたり、友人に彼女をとられたり、仕事が出来なくなったり、家族と疎遠になったりしている。
彼らは社会から置いて行かれている訳だが(患者のひとりはそれをサナトリウムが位置する高原とひっかけて「下界」と呼んでいた)、それに起因する不安や苛立ちを抱く反面、「何も考えないで過ごすと一日が長くない」ことに慣れ、心地よさを感じている。死がすぐ近くにあるが、それは場所がどこであろうと人間には平等に付属するもので、自覚的かそうでないかの違いだけだ。ラストシーンはひとりの患者が眠っているものだが、ひょっとしたら彼は眠っているのではなく死んでいるかも知れない。薄紙一枚のあちら側。
確かにやかましいサナトリウムでしたが(笑)戯曲の本質は漏れることなく伝わっていたように思います。南河内って、と言うか内藤さんってああ見えて(無礼)ひとの生き死にに関しての冷徹さと叙情性の裏表を描くの得意ですもんね…どっちもどっちよって言う。だから罵れないし、本当のことが言えなくて逃げちゃったりじゃれちゃったりすねちゃったりする人物たちが妙にリアルに映る。
あとベタな話だけど、今観ると新型インフルエンザへの対応に合致しているような印象もあってうむうと思ったり。「うつらない」と言われている患者たちですら、疎遠になる間柄がある。目に見えないものに対する不安、差別みたいなものが舞台上にべったり張り付いていたように感じました。こういった無意識の悪意が人間の自衛本能であるようなテーマは、平田さんの『ソウル市民』にも描かれていた。
初見の若手のひとたちがいい味を出していて、しばらく南河内の本公演行ってなかったんですんませんと思いました…とこれは下の話にも関連するなあ。
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■それにしても 内藤さんと平田さんの対談でも言われていたけど、関西の演劇シーンってそんなに危機的状況なんだろうか。確かに東京程若手〜中堅の注目株の話が伝わってこないけど、それは単に自分が情報を収集しきれていないのだと思っていたが…。 80年代末〜90年代前半辺りは新感線、売名行為→MOTHER、そとば、南河内と言った横の繋がりがあったように思うし、関西独自の公演も結構あったように思う。F.W.Fを大阪迄観に行ったりしたけど、今はそういうのってないんだろうか?ないことはないんだろうけど…うーん。 平田さんが阪大に教えに行くようになったのが今回の企画のきっかけだそうですが、これを機にこういった交流公演で面白いものが増えればいいなと。と言うか、自分でも注意して探そう……
■よだん 家を出る前に読んでいた新聞に、松田聖子の「風立ちぬ」の特集記事があったので客入れ曲にはちょっとウケた。ある世代は「風立ちぬ」と来たら「いざ生きめやも」ではなく「今は秋♪」が自然に出てしまいますよねえ(笑)
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