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2009年06月13日(土)
『桜姫 清玄阿闍梨改始於南米版』

『桜姫 清玄阿闍梨改始於南米版』@シアターコクーン

現代劇版です。来月の歌舞伎版のチケットはとれていません。そして鶴屋南北の『桜姫』は観たことがありません。と言う訳で、長塚圭史の翻案新作として観ました。一緒に観た歌舞伎好きのタさんは「こうなるとは…」と驚いていましたし、劇評等読むとかなり厳しい意見も書かれているので、歌舞伎の前知識なく観られたのはある意味ラッキーだったのかも知れません。個人的にはかなり好きな作品でした。しかし歌舞伎版も出来れば観たいなあ。

長塚くん的、と感じたのは、舞台を南米に移し、西部劇やホラーの要素を盛り込んだ舞台設定。宗教的にタブーな部分に土足で入り込むところ。しかしそれには誠実さがあるところ。誠実に土足であがりこむからそら反感も買うでしょう。正論を唱える人物が正しいことを言えば言う程うさんくさく感じられるせつなさ(本人は本気でそう言っているから、その分悲しみも増す)。ズブズブの男女関係と、そこに一瞬だけ灯る光。女性像が鳥瞰的、男性像が接写的。

そして言葉の美しさにますます磨きがかかっていた。これいつ書いたんだ?『夜叉ケ池』現代版の長塚脚本は、今ドキの言葉が過剰過ぎて登場人物の本質が伝わりづらいように感じたのだが、今回はそれがない。現代劇となってはいるが、時代設定は明瞭ではない。口語で語られる、と言う意味で現代劇。美しい台詞を生身の人間が語ることでこうも心を動かされるかと目を見張りました。長塚くんこれを生で観られないとは残念だな!そしてこの話は、口に出せば現実になる世界での出来事なのだ。言霊が人間たちを転がしていく。言霊を発するふたりのキャラクターは果たして人間なのか?その存在を神とするならば、当然人間はその掌の上で踊るだけだ。

串田さんの演出はオンシアター自由劇場時代からの十八番とも言える手法。遡ればブレヒトなのでしょう。入れ子式の構成、観客を巻き込み煙に巻き、虚実が入り交じる。勿論バンドの生演奏も、“さまよえる楽隊”のように顔を出します(音楽は伊藤ヨタロウさん@メトロファルス)。幌が出てくるところといい、土地がどこ迄も続いているかのような奥行きといい、見世物小屋的な描写もあるし、ガルシア=マルケスの『エレンディラ』(『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』)をちょっと思い出しました。天幕が張られ、四方を観客席が囲む。太陽光は行灯を模した照明から降る。舞台上の世界は、神が作った箱庭の中に存在しているかのようだ。

役者陣もとてもよかったな。『sisters』の時にも思ったが、最近の長塚くんが紡ぐ言葉は、謡いこなすには難易度が高い。下手すると演者が呑まれてしまう。それを違和感なく、具象的な説明とともに人物の心情を表現し、なおかつそれを的確に観客に届けられる役者さんばかりだったと思います。「自分が幸せを拾った時、もうひとりの自分が不幸せを拾っている」井之上さんの台詞、「過去は思い出で未来は願望、俺は今しか信じない」古田さんの台詞。必死で追いかけましたが、言葉はその場で消えてしまう。戯曲が出たらきっと読むし、傍に置いておきたいな。白井さんは聖人で俗人で誰とも相容れない役なので、タフな役回りだと思います。しかしあの潔癖さは白井さんだからこそ、と言う感じもした。信じることは思い込みと紙一重なものだけど、その揺れをグロテスクさを交えつつ、運命と言うものに集約させる説得力がありました。潔癖さと言えば誓さんもそうで、裏切りを許さない頑さを生きるモチベーションにしていた人物像は、彼の行く末を暗示して静かに悲しさを呼んでいました。

それにしても古田さんは格好いいな、やっぱり。色気あるわ。肉襦袢着てても(笑『SLAPSTICKS』のロスコー・アーバックル思い出した)。身体も動くしねえ。そして言い回しがやはり上手い。ニュアンスをちょっと変えるだけでこうも言葉に命が宿るか!大竹さんとのやりとりではアドリブなのか?と思わせられる程自由だった。あそこアドリブだったのかなあ?大竹さんと笹野さんは狂言回し的な役回りも担当。いやー、まわすまわす。コンビネーションも絶妙でした。

自分が幸せを拾った時、もうひとりの自分が不幸せを拾っている。自分が不幸になった時、もうひとりの自分が幸福になっている。もうひとりの自分は列車に乗って、星の降る夜空の下にいる自分を灯の中から見詰めている。ふたりは一瞬だけすれ違う。運命は変わるのではなく、ぐるぐる回っている。神の掌の上で。だから“やめられない”し、「生きたい、生きたい、死にたくない」とあがくのだ。

あれ?これって要は『暇をもてあました神々の遊び』じゃないか(笑)