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2008年10月17日(金) ■ |
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『サド侯爵夫人』初日 |
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『サド侯爵夫人』@東京グローブ座
いや〜すごかった。カーテンコールでちょっとしたハプニング(加納さんが転倒)がありましたが、もう使い切っちゃったと言う感じだったのかな…集中力、体力、緊張感。マチソワの日って結構ありますよね…無事楽日を迎えられますように。
第一幕45分、休憩10分、第二幕50分、休憩15分、第三幕45分。三島美文怒濤の140分(+休憩)、言葉言葉言葉のガチンコバトルです。特に二幕がすげーぞ!暗転後客電がついて、休憩に入った時の客席の「はあ〜」って弛緩っぷりはすごかった(笑)観る方もかなり体力使います。
元々が「日本の新劇俳優の翻訳劇の演技術を、逆用してみたい」と書かれた作品。東洋人が西洋人を演じる、しかも日本語で。その上今回は登場人物の女性たちを全て男優が演じる。このねじれにねじれた構造を何の違和感もなく観るには、第一条件として役者の技量。所作、口跡が当たり前のように流麗で、気にならない程美麗、自然であること。そして勿論、その自然とは意識された上の自然だ。舞台に立っている以上、ナチュラルでいると言うのは実は有り得ないことだ。自然であることとして観客に見せる。そこには役者の意識があり、技量が必要とされる。
戯曲として読むと美しい三島のテキストは、美しいが故に実際口に出すとそれが言葉にならないことがある。意味が素通りする。台詞を読んでいる、と言う状態から脱しきれない。文字を読むのなら何度も繰り返し戻り、読み直し、言葉を噛み締めることが出来る。読み手が時間を戻せる。しかし舞台でそれは不可能だ。よって、役者が「台詞を読んでいる」状態だと、耳を通り抜けるだけになり、言葉のリズム(そう、独特のリズムがある)の心地よさと相俟って、意味を掴む前に寝てしまう(笑)
当然、と言ってしまえる程篠井さんと加納さんがズバ抜けている。言葉が違和感なく意味とともに伝わる。かなりのスピードで喋っているが、頭にするする言葉が入り、しかも止まる。抜けていくことがない。それでいて言葉のリズムは規則正しく心地よく、その積み重ねがグルーヴすら生む…痛快に感じる程だった。官能的とすら言える。
しかしその光景はかなり繊細なもの。自然であればある程、ふとしたことで緊張の糸は切れ、そこから一気に瓦解しかねない。よって観客側もかなりの緊張を強いられます。これね、言葉が伝わってなければ観客はいくらでも弛緩出来ると思うんですよ。でも伝わっちゃうの!だからだらっと聴いてらんないの!これから観る方は覚悟してください、たまんねーぞあの緊張感!
役者全員が言葉と格闘しているのがありありと感じられますが、やはり篠井さんと加納さんの乗りこなしっぷりがすごかったです。18年振りの共演、目に出来てこんなに嬉しいことはない。
音響、照明、美術は最小限。ミニマルな世界に言葉だけが溢れ返る。突き詰めれば衣裳すらいらないところ迄行きそうだ。この言葉と、それを使いこなせる役者が揃えば。
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恥ずかし乍ら実際に舞台に載った『サド侯爵夫人』を観るのは初めてでした。テキストは高校生の時読んでたが、当時は言葉の美麗さと退廃的な貴族の暮らしに圧倒されつつも、ルネの最後の行動にはピンとこなかったんですな。しかし今回、観る前に読みなおして…これ、「ルネはドM」って観点で読めばスカーンと雲が晴れるな!とかって片付けると三島に俺が介錯してやるからおまえすぐに腹を切れとか言われそうですが…いや、信仰生活に入ることでルネは生涯の快楽を得たといっても過言ではないと思えるんですよね…そうやって読んで行くと、尼になったシミアーヌ男爵夫人の言動が限りなく俗に思えてくる。神に近づいたとはよく言ったものだ。
で、今回それを舞台で目の当たりに出来たのも面白い体験でした。照明がシミアーヌ男爵夫人に当たって暗転、と言うラストシーンが象徴的に思えました。
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