I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
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2008年05月27日(火) ■ |
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『失われた時間を求めて』 |
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へドウィグ仙台公演無事終了したようです、よかった!演出等変更はあるようですが、これはこれで「違うヴァージョン」として楽しめそうだな…み、観たい……。
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阿佐ヶ谷スパイダース『失われた時間を求めて』@ベニサン・ピット
楽日のマチネにすべりこみ。ジェンヌありがとー!
オールビーの『動物園物語』が下敷きにあるのは明確だったが、あの閉塞感はイヨネスコの『授業』を連想させもした。ベンチ、外灯、枯葉。晩秋の公園のようなロケーションなのに、そこは壁に囲まれ、3箇所のドアから出入りするようになっている。ドアと公園の間には側溝がある。屋外なのに隔絶されている。そこからは、どちらかが死なないと出られないかのようだ。
えーここからは偏ったことを書きます。勿論この芝居は『動物園物語』だけじゃないと思います。この舞台上では誰も死ななかった。
序盤、何かを探しに公園を訪れる人物と、ずっと公園にいるであろう人物(?)との会話が続く。彼らをジェリーとする。中盤、ベンチで読書をする人物が現れ、何かを探している人物と対話する。彼をピーターとする。ジェリーとピーターは体感時間が違う。終盤に『動物園物語』であろうストーリーが語られるのだが、女はあっさりとジェリーの気持ちを喝破してしまう。「王様は裸だ」とでも言うように、そこには不条理なんてものはない、と。公園を出てもそこには同じ枯葉と外灯とベンチが拡がるばかりだ。あちらにもドアがあるのだろう。
時間軸の違う場所にこういうピーターとジェリーがいるかも、と夢想する楽しさがあった。
モチーフとして扱われているので、ジェリーはずっとジェリーではない。ねこになったり、弟になったりする。そしてピーターにはどうやっても揺らがない芯がある。それは都市生活で感情が麻痺しているのではなく、確信を持った強さと優しさだ。彼はベンチの争奪戦には参加しないだろうし、ジェリーにナイフを向けることもないだろう。
長塚圭史の書く芝居にはいつも最後に決意表明のような台詞がある(『はたらくおとこ』の「許す!」、『少女とガソリン』の「あんた間違ってるよ」)。それは反感や侮蔑を呼ぶことがある。しかし言い切る勇気を持っている彼のことは信用したいと思う。それがたまに間違いになることもあるかも知れないが、公園でナイフを持った男はひとりで死にたくなかったから、誰かに憶えていてほしかったから、と言い切れるまっすぐさは貴重だと思う。今回の舞台では「ありがとう」と言う台詞がそれに当たる。その素直さに到る迄には随分回り道や葛藤があるのだろうが(そしてその回り道や葛藤が今回の禅問答のような台詞の応酬に表れ、ところどころ舞台上に膠着状態をもたらしていたように思う)、それでもこの言葉を選ぶ強さを羨ましいとも思う。
そしてこの感想を書いている自分もエラくまわりくどいことを書いてると思う(笑)あー思い切りてえー。
ねこはどうしているのかなと思った。ずっと公園にいるままだろうか。ずっとゴミ箱の中で寝たり、にゃーと鳴(泣)き声をあげたりしているのだろうか。
それにしてもにゃきゃやまさんはにゃきゃやまさんであるかわいさをだな!なんだあれ!分かってやってるだろう!そういう演出をするケイシーもどうなの!
あ〜にくたらしい。
伊達くんは落ち着きのある声が、達観した人物像に効果的でした。奥菜さんは復帰後初仕事でしたが、まず技術的にすげー上手くなったなあと思った。『胎内』の時よりもむちゃ声通るようになってた。長身ケイシーと並ぶと遠近感が混乱する程小柄でかわいい。美形。妖精のようだーあああーかわいいなー持ってかえりたいー(犯罪)
『動物園物語』では、ねこが食卓に食器を並べます(微笑)にゃきゃやまさんも自慢の料理を楽屋でふるまえばいいじゃない(笑)あーにくたらしい。
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