初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2007年12月01日(土)
『転校生』

SPAC 秋のシーズン『転校生』@静岡芸術劇場 小ホール

この作品を観客として観ることが出来た幸せと、この作品を二度と観ることが出来ないせつなさとに同時に襲われて、暗転の中ぽろぽろ涙が出た。しばらく席を立てなかった。終演後、別の席で観ていた友人と顔を合わせ、「よかった、来てよかった!」と言おうとしたが、その途端声を出して泣いてしまいそうになり、ぽつぽつ「いやあ…」「よ、よか…」「ううう」とかアホ丸出しの単語でしか喋れずしばらく歩いた。今しか観れない、もう観れない。すぐに過去だ。再現は出来ない。たった二公演、明日の上演はまた違ったものになっている。あの時舞台に立っていた彼女たちはもういない。

初演は1994年、第8回青山演劇フェスティバル。この年のテーマは『女子高生1994』、作者の平田オリザさんの演出で、出演者は全員現役女子高生だった。この時のことはよく憶えていて、まっさらのオーディションで未経験者を含む全キャストを選び、ワークショップを重ねて上演する、と言う平田さんのプランを「チャレンジャーだなあ」と思った。今では当たり前のようになっているワークショップは、当時では珍しかったのだ。ガッチリとしたプロダクションの、他のラインナップとは明らかに異質だった。フェスのテーマには最も合致していると思ったものの、未知過ぎるキャストに躊躇してチケットをとらなかった。そのまま一度の再演もなく今回を迎えたそうだ。

だがしかし、そこには今の女子高生がいた。宮城さんの言う通り、この作品には同時代性と普遍性が同居している。退屈で仕方がない。未来へ漠然とした不安がある。学校のことは好きで、ともだちのことも好きで、同時にとてつもなく孤独。友人のことを心配はするが、それを自分が助けられると勘違いする程思い上がってはいない。社会的に無力なのを知っている。ちょっとした変化に大はしゃぎし、そしてそれをすぐに受け入れ、または拒絶する。その若さは美しいものだが、同時にグロテスクですらある。そして勿論、舞台に立っている女子高生と、それを観ている私は、同じものを見ているが違うものを見てもいる。

同時多発会話の手法を平田さんが始めた当初、それはかなりラディカルなものと評されていた。リアリズムを追求する割に、舞台上で言葉を発している役者はひとりだけと言うこれ迄の戯曲の矛盾を真っ向から突いたリアルな会話が書かれていたからだ。実際複数のひとが同じ場所にいて、同時に声を発することは自然なことだ。聞き手は同時に鳴っている音から自分に必要な、もしくは興味があるものを意識/無意識で選択することになる。『転校生』の登場人物は19人。当然全ての台詞を聴き取れる筈がない。音を選択する自分の意識/無意識を意識する作業が必要になる。その作業は、舞台上の女子高生と私の何が違うのかをも考えさせる。

インターネットと言う単語が出る等、脚本は若干ヴァージョンアップされていたと思う。しかしそのことや、彼女たちが携帯を持ち歩いていることは、さほど重要ではないように思えた。彼女たちは時折携帯を開いてメールチェックをしてはいるが、基本的には目の前のクラスメイトと会話をし、授業のために教室を移動し、お弁当を食べ、帰って行く。図書館に調べものをしに行こうと言う。

初演と大きく違うと思われるのは、転校生を年配の女性が演じたことだろうか。初演のキャスト表には、写真入りのプロフィールが全員分載っているが、皆が若者の顔だった。実際に観てはいないので、初演の転校生を演じたのは女子高生だ、とは言い切れないが。

突然転校生が現れたと言う事件に加え、その転校生が白髪まじりの年配の女性だと言う視覚的効果は、観客を混乱に陥れる。担任教師は学校を休んでいる。彼女を教室に連れて来た委員長も特に変わった説明はしない。転校生の外見、年齢については一切触れられない。「ある朝起きたら、ここに転校するんだって思ったの。それでこの学校に来たの」と言う彼女に、教室の女子高生たちが「本当に転校生なの?」と訊ねる言葉は、観客にはふたつの意味を投げかける。「どうして転校して来たの?」「おばあさんなのに高校に転校してきたの?」

しかしその後、彼女たちはごくごく自然に転校生を受け入れて行く。おばあさんとミドルティーンの女の子たちが一緒にお弁当を食べたり、授業の話をしたり。そして独特の距離を取り合う。それは“転校生”に対する距離の取り方でしかなく、その転校生がおばあさんであると言う外見の異質さが観客にとって自然なことになっていく。異常と言えば異常だが、そんなマジックが通じるのは舞台だけなのだ。

転校生に対する柔軟さを女子高生の若さと言い切るのは簡単だが、その“若さ”は単純ではない。いきものとしての若さは全肯定的なものだが、それだけでは済ませられないものをミドルティーンの女の子は抱えているからだ。転校生役をおばあさんにしたと言う仕掛けは、彼女たちのグロテスクさを浮き彫りにした。しかしこのグロテスクさは、彼女たちにとっては自然なものなのだ。転校生は「ひとはどうやって(How)生まれてくるかは判るけど、その子が何のために(Why)生まれて来るのかは判らない」と言う。そして「私、本当に明日もこの学校来れるかな」と言う。クラスメイトたちよりも明らかに死に近い人間が話すことで、この台詞にはとても重さがあることに気付きやすくなる。

劇場内では、開演前から時報のコールがずっと流れていた。途中その時報を携帯で聴き乍ら教室から飛び降りる生徒がいる。帰って来たクラスメイトは「どこに行ったんだろう」と気にし乍らも、彼女を見付けることなく帰って行く。死体がある(かも知れない)同じ敷地内でかわされる会話は、彼女が飛び降りる前と後とでは全く変わらない。そして時報のコールはエンディングにも現れる。ピアノ曲とともにリズムが反復される。そのリズムに合わせ、手を繋いだ女子高生たちは「せーの!」と叫びジャンプし、床に足音を響かせる。

何度も続くリズムの反復、それは飴屋さんの作品でよく現れる。演出作品を観るのは1993年の『ドナドナ』以来だが、その場所でもリズムは何度も何度も続けられた。役者の動きもループする。いつまでも続くそれは役者の身体を疲労に追い込み、腕が上がらなくなったり、息が上がったりする。それでもリズムは止まなかった。昂揚感に満たされていく。思えば東京グランギニョルも、M.M.M.も、プロフェッショナルな役者は殆どいなかった。今回、現役女子高生たちと飴屋さんがこれだけの作品を作り上げたことは至極納得の行く話だ。企画を出してくれた宮城さんに感謝するばかりです。

足音を聴き乍ら、彼女たちと違う風景を観ている私は、何度も「この素晴らしい舞台を観客として観ることが出来ない彼女たちはなんて不幸なんだろう」と思い、同時に「この素晴らしい舞台に立てる彼女たちはなんて幸せなんだろう」と思った。そして、照明が落ち、足音が止んだ途端に泣いた。

****************

■てらてらありがとうー
静岡在住の友人にお世話になりました。車乗せてもらったり名物丸子のとろろ汁を食べにつれてってもらったり。そうだー東海道ですもんな。とろろ汁と言えばクドカンの『真夜中の弥次さん喜多さん』で勘九郎(当時)さんが売ってたな(笑)で、食べるとトリップするんだよ(笑)うまかったー

■静岡といえば
おみやげでよくあるこっこと言うお菓子が大好きでして。今回久々に買えたのも嬉しかったー

紅葉の足柄山も、雪を被った富士山も見られたし、会田誠さんが『アートで候。』で描いてた『727』の実物も見られたし楽しい日帰り遠出でした。いやホント行ってよかった。