前潟都窪の日記

2006年06月11日(日) カザフスタンの旅3・・・タラス

2006.4.25
  ホテル・ジャンプールを朝出発してタラス川古戦場の遺跡を見学した後、アイシャ・ビビ廟を見学した。道中大草原をバスで疾駆すればタラス・アラトー山脈が雪を頂いた美しい姿が目を楽しませてくれた。また時折牧童達の騎乗姿も目撃でき牧歌的な光景は異国ならではでの旅情をそそるに充分である。

タラス・アラトー山脈




牧童






タラス川




サッカーの練習をしていた村の子供達




 タラス川の戦いとは東洋史辞典・東京創元社によれば以下のようなものであった。

 751年(天保10年)に唐とイスラム帝国(アッバース朝)との間に行われた戦争。唐将高仙芝はイスラム軍と中央アジアのタラス河畔で衝突したが、唐軍の大敗に終わり、それより唐の西方における勢力が後退しはじめた。タラス川は東西交通の要路で、タラス城は天山北方の重要な貿易場であった。かつて西突厥が本拠を置いて威をふるったが、唐の西域経略によりその勢力はパミール以西に及んだ。あたかも新興のアラビア人がササン朝を滅ぼして東方へ伸びた。アッバース朝の時、東西両帝国の衝突となり、この戦いが起こった。このとき捕虜となった紙漉き工から紙の製法がイスラム世界に伝わり、サマルカンドに製紙工場が作られ、西ヨーロッパの印刷技術発達の伏線となった。引用終わり。

注 西側 アラブ軍 統率者はクタイバ(シリヤ出身) 5万人
東側 唐軍 統率者は高仙芝(高句麗出身) 5万人
   この大激戦は五日間続いた。

古戦場跡の丘の上には11世紀に建てられたテクトルマズ廟がある。

テクトルマズ廟





アイシャ・ビビ廟は12世紀のものであるが、施された幾何学模様は様々で美しい装飾である。隣に寄り添うように乳母ババジ・ハトゥン廟がある。

アイシャ・ビビ廟





アイシャ・ビビには悲恋の伝説が残されている。以下の純愛物語である。

戦いに敗れたカラハン王子は一時サマルカンドに軍を引き揚げていた。そこで商人の娘アイシャと恋に陥るがアイシャの父は結婚を許さなかった。王子はやむなく軍とともにタラスへ戻っていった。娘を哀れに思った母親は乳母のババジ・ハトゥンをつけてアイシャをタラスへ送った。愛する王子に会う前に川で身を清めたアイシャは草の上に置かれた花嫁衣装に手を伸ばした時、毒蛇に噛まれてしまった。乳母に急を告げられた王子は川辺に駆けつけ瀕死のアイシャを抱き上げて、息を引き取る前に結婚式を挙げた。王子は彼女以外の妻を娶らないことと彼女のために立派な廟を建てることを誓った。


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