前潟都窪の日記

2005年02月16日(水) 秦   河 勝 連載1

秦   河 勝
         古代大和国家の発展を陰で支えた実力者一族の頭領

 吉田山の「白樺」という学生相手の飲み屋に、私達はトグロを巻いていた。ママと高校二年生の娘が醸しだす家庭的な雰囲気に魅きつけられる何かがあったのかもしれない。眼鏡の奥底に人なっつこい笑みをたたえて、広隆寺の弥勒菩薩の素晴らしさを情熱的に語っていた秦野という学生は私と同じ法学部五組の二回生だった。

第二外国語にドイツ語を選択する学生が多い中で、フランス語を選択した数少ない変わり種の一人であった。秦野を教室で見かけることは少なく、秦野に会おうと思えば、夜「白樺」を覗いてみればよかった。

彼は、歴史書、美術書を片手に、京都・奈良の神社仏閣を訪ね歩くのを日課としており、夜になると「白樺」へ現れ、同好の学生を相手に彼独特の見方で歴史上の事実を解釈し、皆に披露するのであった。

夏休みになって、学生達がそれぞれ帰郷し、「白樺」が閑散となっていたある日の新聞に広隆寺の弥勒菩薩に抱きついて、あの見事な流れるような線の右手の指を折ってしまった学生のことが社会面の記事として報道された。犯人の学生の名前は伏せられていたが、その記事を読んだとき私は何故か秦野という学生が犯人に違いないと直観した。

「推古天皇が美人であったから、聖徳太子は半跏思惟像を秦河勝に与えたのであり、崇峻天皇が殺されたのもそのためだ。聖徳太子が天皇になれなかったのもその所為なのだ。美しいことは罪悪だ」と熱ぽっく語っていた秦野の言葉を思い出したからである。眼鏡の奥底に光るあの人なっこい眼差しは彼流にいえば犯罪だからである。

その夜、久しぶりに「白樺」へ行ってみたが秦野は帰郷したらしいということで、彼の姿を見かけることは出来なかった。この事件があってから私は教室でも「白樺」でも秦野の姿をみかけることは出来なかった。

私が秦河勝についてその生涯を辿ってみたいと思うようになったのは、学校卒業後さる大手の製造会社に就職をして20年程経ったある日、京都の南禅寺境内にある某僧坊で開かれた同窓会に出席し秦野に会ったからである。この僧坊は権限の乱用で社長職を解任され世間を騒がせた有名百貨店の社長とその愛人の女実業家が逢瀬の場所として使っていたその百貨店の元接待寮であった。

そして20年いや22年振りに再会した秦野はやはり眼鏡の奥に人なっつこい笑みを湛えていた。聞けば暴力団のみをお客にとる有名な弁護士になっているということであった。

美しいことは罪悪だと言った彼。人なっつこい眼差しは犯罪であると思った私。
この二人の22年振りの邂逅が何故か私を1,400 〜1,500 年前の世界へ誘うのである。


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