「この子には河勝と名付けることにしよう」と父の秦国勝(はたのくにかつ)は皺くちゃだらけの嬰児の顔を覗きこみながら、産褥にある妻の赤子郎女(あかこのいらつめ)に向かって言った。 「河に勝つですか。強そうでいい名前ですこと」と赤子郎女は嬰児の頬に頬ずりをしながら応えた。 「そうだ。桂川に先ず勝つことだ。そして世の流れという大きな河に勝つことが秦一族の繁栄に繋がることになるのだ」と国勝は最近氾濫した桂川を部民を指揮しながらやっと治めた十日程前のことを思い出しながら言った。 「先祖ゆかりの地新羅が栄えるのはよいことじゃ。この子もきっと幸せを掴むじゃろう」
秦国勝の先祖は新羅から渡来してこの葛野(かどの)の地に定着した帰化人であったが、昨日出仕したときに、大臣の蘇我稲目から最近、任那の日本府が新羅にうち滅ぼされたと聞かされていたので、新羅の国から渡来した遠い先祖のことを偲びながら言った。
河勝が生まれたのは562 年欽明天皇の御代のことであった。
この時代は、蘇我稲目が娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(こあねぎみ)の姉妹を欽明天皇の大后・后として宮中に送り込み、外戚としての地位を確立し、権勢を誇っていた時期である。
河勝は幼少の頃から聡明な子供であり、色々なことに興味をしめした。 「まあこの子はなんて勿体ない食べ方をするんでしょう。そんなに沢山飯粒を残してからに。河勝や、御飯は一粒でも残したら罰があたりますぞ。お米が食べられるようになるまでには多くの人々が八十八回も汗を流しているのですからね」と母親の赤子郎女は木の椀の端に残っている飯粒を指さしながら河勝を叱った。
「はい。ごめんなさい」と素直に謝ってから河勝は椀の端にへばりついている飯粒を可愛らしい手でつまんでは口へ運びながら聞いた。
「八十八回の汗とはどんな汗ですか」 「お米を作るには、先ず田圃を耕して、水を引き、苗代を作ります。苗代を作るためには草をとり、畝を作って肥やしをやり、また耕して畝を作りその上に種籾を蒔きます。種籾を蒔いてからも種が烏や雀に食べられないように、籾殻を焼いてその上にかぶせますのじゃ。芽がでてからも草をとったり、肥料をやったりして苗を育てるのです。苗が育つとこれを抜いて、田植えをします。田植えをするためには、その前に別の田圃を耕して水を引 き、準備をしておかなければなりません。田植えが終わってからも、田の草取りをしたり 、水車を踏んで水を田圃へやらなければならないのです。やがて稲が穂を出して実ってくるとまた烏や雀に食べられないように、案山子をたてたり鳴子をつけたりしなければなりません。十分穂がみのったら今度は稲刈りです。刈り取った稲は乾燥させて、脱穀しさらに乾燥させてから今度は籾擦りをして籾殻とお米を分離しなければなりません。こうしてできた玄米を臼で挽き、糠をとってはじめてお米ができるのですよ。このようにしてお米ができるまでには、八十八回も手間をかけ汗を流しているのです。このことを忘れないように、御先祖様は米という字を作られたのです。」
赤子郎女は秦一族が米作りに如何に血と汗を流してきたかを、一族の未来の統率者に子供のうちから教えこんでおかなければならないという使命感に燃えていた。
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