みのるの「野球日記」
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2004年10月02日(土) 慶應義塾、古豪復活への第一歩(1)

◆10月2日 秋季神奈川大会準決勝
慶應義塾 000105000|6
横浜高校 012010001|5

 試合後、ベンチ裏に出てきた上田誠監督の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「あ〜、勝った。泣きそうだった…。涙が出てきたよ」
 最終回、一打逆転サヨナラのピンチを凌いだ瞬間、ベンチにいた部員はグラウンド目掛けて一斉に走り出し、優勝したかのように喜びを爆発させた。ベンチに残った上田監督もガッツポーズ。赤松衡樹部長、小関亮太主務(2年)と抱き合い、喜びを分かち合った。
「重い扉を開くことができたかな。ぼくが監督に就任してから、横浜から1点も取ったことがなかった。最後に戦ったときなんて、10−0の5回コールド(01年春季大会)。でも、勝つなら今年だと思っていました。横浜はまだチーム作りが整備されていない、今回はチャンスだと」
 横浜は夏の甲子園に進んだことに加え、渡辺元智監督がAAAの監督を務めたため、約2週間不在だった。対する慶應は夏は下級生主体のチーム。ほとんどレギュラーが入れ替わることなく、秋を迎えることができた。

 慶應は準々決勝が終ってからの1週間、横浜の先発が予想される左腕・川角謙(1年)の対策に充てた。狙いは「長打を打て!」。川角の武器である右打者の外角に逃げるボールを捨て、内側に入ってくるボールをセンター方向に思い切り振りぬけ! 結果、横浜の繰り出した3人の左腕から計12安打。そのうち、7本がセンターへの当たりだった。
「準々決勝で当たった日大が、川角くんの外に逃げる球に対して、右方向へ追っ付けようとして、逆に抑えられていた。それなら、うちは中に入ってくるボールを思い切り打っていこうと」
 打線もピッチャーの中林暢陽以外、右打者を8人並べ、横浜の左投手に挑んでいった。

 立ち上がり、慶應はいきなり内野のエラーでランナーを許す。3回には捕手の三塁送球が暴投となり、失点。ここまで無失策できた守りにミスが続出し、3回を終え0−3とリードを許した。
 ただ、慶應ベンチに焦りはなかった。「3点なら、とれる」。現にランナーが三塁にいったとき、内野守備陣は前進守備ではなく通常の守備位置で守っていた。「1点を惜しんで、傷口を広げるよりも、アウトひとつずつ重ねていこう」と試合後の上田監督。打線で取り返す自信があった。

 4回表、慶應の攻撃。2死二塁から5番山口尚記(1年)にセンター前タイムリーが出て、1−3と得点差を縮める。ちなみにマウンドにいた川角も、タイムリーを打った山口も、愛知の出身。川角は愛知衣浦シニア、山口は名古屋北シニアの出身だ。ともに1年生、シニア時代にも対戦があったのかもしれない。

 5回裏、横浜も2死二塁から5番白井史弥(1年)がタイムリー。再びリードを3点に広げた。慶應が川角対策を立てたと同様、横浜も中林に対する対策をきっちりと立てていた。
「自分の生命線でもある、右打者の内角ストレートをどんどん狙ってきていた」と中林。ただそれを感じ取った中林はこの5回頃から、配球を外中心に変えてきていた。

 前半を終えて、横浜が3点のリード。ポイントは川角をいつ代えるか…、そう思ってみていると、横浜は6回表からスパッと西嶋一記(1年)を持ってきた。西嶋も川角と同じ左腕。瀬谷シニア時代から名を馳せた投手で、シニアの全日本にも選ばれている。横浜でも1年春からベンチ入りを果たしている逸材だ。秋の横浜は、川角から西嶋に繋ぐのが勝利の方程式だった。

 6回表、代わったばかりの西嶋に4番大久保直光(2年)が先制パンチを浴びせる。カウント1−1から低めのストレートを右中間に持っていく、二塁打。無死二塁と、いきなり西嶋を攻め立てる。が、5番山口、6番中林とともにボール球を振らされ三振。ただし、西嶋のボールは荒れていた。球は速いが(130キロ後半?)、まとまりはない。
 次ぐ7番佐藤廉(2年)がボールをよく選び、四球。8番はキャッチャーの鹿毛雄一郎(2年)。守備を買われ、この秋からスタメンマスクを掴んだ。「代打出すかなぁ…」とベンチを見ていると、上田監督が動いた。代打一番手、野毛慶弘(1年)の登場。中盤の6回に正捕手を代えるリスクもあったと思うが、慶應ベンチは攻めの姿勢を見せた。この野毛が、カウント2−3からインハイのボール球をよく見極め、2死満塁。ホームランが出れば、逆転という場面を作り上げた。打順は9番の渕上仁。ネクストから2〜3歩、バッターボックスに進むと、ベンチから呼び止められた。

 代打二番手は1年生の平川敬悟だった。いかにも一発があるようながっちりとした体型。ストレートには強そうだなぁと思って見ていたら、とんでもないことが起きた。初球のカーブをぴくりともせず見逃したあとの二球目。高めのボール気味のストレートを、ボールが潰れんばかりのスイングで叩くと、角度よく打球はレフトへ。スタンドは一瞬、「ワッ!」と沸いたあと、静まりかえった。再び沸いたのは、レフト芝生席に打球が跳ねた瞬間。慶應ベンチは全員がベンチを飛び出し、ガッツポーズを繰り返した。まさかまさかの代打逆転満塁ホームランで一気に試合をひっくり返した。
 そしてここで終らないのが、今年の慶應。1番新谷拓也(1年)がヒットで出塁したあと、すかさず盗塁。2番漆畑がセンター後方へ二塁打を放ち、2点差と突き放す貴重な追加点を挙げた。

 試合後の上田監督。
「平川はたまに交通事故がある。でも、満塁ホームランなんて考えてもいなかった」
 そして、平川。
「もう思い切って振ることしか考えていなかった。公式戦初ホームラン。ホント嬉しいです!」
 西嶋と平川。聞けば、シニア時代に対戦があったそうだ(平川は藤沢シニア)。
「何回も対戦しています。ある試合では3打数2安打で、ホームラン1本打ったこともある。だから彼からは2本目。打席に入ったとき、西嶋の方を見たら、ニコッと笑ってきたので、オレもやってやるぜ! と思いました」
 ちなみに平川は、鎌倉学園中学校の出身。そのまま鎌倉学園高校に上がることも考えられるが、悩みに悩んだ末、慶應を選択したという。
「悩んで悩んで考えて、でも慶應のこの雰囲気が気に入ったんです。慶應で甲子園に行きたい」
 平川の逆転弾で、試合の状況は一気に変わった。

 6回裏。代打に代わって、慶應は高橋玄(2年)をキャッチャーに送った。
「ちょっと不安はあったけど、玄も1年から出ているし試合経験がある。玄に代わってから、中林のリズムもよくなった。ナイスリードだった」(上田監督)
 高橋は札幌の新琴似シニア出身。シニア日本選手権では4位にも入っている。推薦で慶應義塾に入ってきた。
「慶應は普通の学校にはない雰囲気があって、この学校で野球をやったら面白いだろうなぁと思って受けました。北海道から来ることで不安もあったけど、とにかく慶應で野球がしたい。そう思っていました」
 高橋は1年秋からレギュラーを掴み、エース中林を支え続けた。が、2年春が終ってからはスタメン落ち。春の桐蔭学園戦以来、公式戦出場からは遠ざかっていた。
「次いくぞといわれたときは、負けていたとき。それが満塁ホームランが出て、リードの場面で交代になった。春以来の公式戦だし、緊張しました。ミスもありましたし…」
 9回には大事な場面でのパスボールもあった。それでも定評のあるインサイドワークで、中林を生き返らせた。
 公式戦で久しぶりにバッテリーを組んだ中林はいう。
「1年の頃から組んでいたので、自分のことをよく分かってくれている」
 高橋に代わった6回から、右打者の外角へシュート系のボールを多く使い、前半とは配球を変えた。試合出場に飢えていた選手が、大事な一戦で意地を見せた。

 そして、旧友との対戦もあった。6回途中から横浜のマウンドに上がったのは左腕・桜田裕太郎(2年)。桜田もまた、高橋と同じく新琴似シニアの出身だ。ふたりはシニア時代、バッテリーを組んでいた。対戦は7回表、2死満塁というしびれる場面で訪れた。
「絶対に打ちたかった」という高橋はストライクを見逃すことなく、すべてフルスイング。ただ、力みまくり…。カウント2−2から高めのボール球を強振し、空振りの三振に終った。
「高校に入ってから、桜田のピッチングは見ていなかった。今日が初めての対戦。すごく懐かしかったです」
 遠く札幌から、激戦区神奈川に乗り込んできたふたり。関東大会出場をかけた大一番で、投手vs打者として対戦。春からスタメン落ちした高橋と同様、期待されて入学した桜田も2年春に左ヒジの靭帯を痛め、夏の甲子園に出場はできなかった。この日、「ピッチャー、桜田くん」というコールが告げられると、三塁側の横浜応援席からは大きな拍手が起こっていた。

 6−4。慶應2点リードで、試合は中盤に入っていった。 


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