横綱・貴乃花が引退した日。朝日新聞の夕刊に『「静」の横綱 のぞいた激情』という記事が掲載されていた。記事はこう始まる。 <平成の相撲ブームの主役3人は、それぞれ1人称が違った>
曙、若乃花、貴乃花。それぞれが違う1人称を選んだ。 <曙は角界で一番普通な「オレ」を選び、異国に同化した> <「人間・花田勝」を貫いた若乃花は「ぼく」で通した> <人となりの表れたこの2人と違い、貴乃花は「私」を選んだ>
「私」を選んだ貴乃花も、当初は「ぼく」だった。 <女優の宮沢りえさんとの婚約破棄をめぐる「貴・りえ騒動」で大きな傷を受けた。このころまでは「ぼく」だったが、最高位を極める前後から「私」が増えた>
そして、ときに「おれ」が現れるときもあった。 <優勝なしに終わった99年を振り返りながら「ほんと、おれがやらなきゃいけないよな」とつぶやいたことも>
沢木耕太郎氏の『バーボンストリート』(新潮社)に「奇妙なワシ」というエッセイが収録されている。江夏豊について書かれている。 <江夏はスポーツ新聞に登場させられると、必ずワシという一人称を使わされることになる。一匹狼、自分勝手、強心臓などという表面的な印象が、江夏をワシという人称代名詞と不可分のものにしてしまった>
しかし実際、江夏は「ワシ」ではなく、「オレ」「ボク」を使っている。 <当人がワシと言っている場合には問題ないが、オレ、ボクを使っている場合にも、勝手にワシと変えてしまうのだ>
「おれ」「ぼく」「私」「ワシ」。 「オレ」「俺」「ボク」「僕」「わたし」「わし」。 それぞれにイメージがある。「おれ」と「オレ」でも持つイメージが違う。
就職試験を受けていた頃、面接での一人称は「私」だった。普段、めったに使うことがない「私」。話していて、明らかにいつもとは違う。いつもの「私」とは違う「私」だった。
いま、文章の中で「私」を一人称として使っている。「ぼく」か「私」か迷ったが「私」を選んだ。明確な理由はない。でも、「ぼく」という響きには違和感があった。 知人には「『私』はないんじゃない」と言われた。「ちょっと上からものを見ているようなイメージを与える」と言う。確かに「ぼく」の方が、純朴さが感じられ、読者、取材者との距離が近いイメージはある。
「私」と「ぼく」。 どちらを選ぶかによって、文章のスタイル、読者のイメージまでも決まってしまう。どちらで生きていくか、まだ決まっていない。とりあえず「私」を選んだが、文章では一人称を極力使わないようにしている。面接で「私」を使ったときと同じような感覚である。
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