2002年12月13日(金) |
来季へ(1) 横浜国大・野原慎太郎投手【1】 |
11月のはじめ、横浜国大・野原慎太郎投手(2年)から、メールをもらった。 「14日に、横浜スタジアムで国学院とのオープン戦があるので、良かったら見に来てください。自分は抑えで登板する予定です」 迷うことなく、行く旨を伝えると、 「大学に入ってから、知り合いを試合に呼ぶの初めてです。今まで恥ずかしくて、友達すら呼んだことなかったんです。新チームから国大は変わろうとしているので、是非来て下さい」 野原は名門・東海大相模出身。2000年のセンバツ甲子園では、優勝を経験している。ただ、甲子園での登板は一度もない。筑川(現東海大2年)、山本(現国際武道大2年)とふたりの好投手がいた相模では、活躍の場がなかった。最後の夏の大会は、20人のベンチ入りメンバーに入ることすらできず、ネット裏で同期の活躍を見つめた。
高3の夏休み、進路先で悩んでいた野原は国大のグラウンドを訪ねた。そこに、のちにプロ入りを果たす北川智規投手(当時4年)がいた。 「大学に入って、野球部をやろうかどうか迷っていたんです。あのとき、北川さんと話しをすることができて、確か30分ぐらい、わざわざ練習を抜けてくれて、延々話しをして頂いた記憶があります。『国大はいいところだぞ。自分で考えて野球ができるぞ』と言われて、やってみようかなと思いました」
同期の仲間が東海大など、強豪チームを選ぶ中、野原は国立の最難関・横浜国大を選んだ。 だが、入部から2ヵ月後の6月。野球部を続けていく気持ちが薄れていた。 「もう、本当に辞めようかと思いました。部というよりも、サークルに近い感じに思えて……。でも、大槻さん(3年、現新キャプテン)に言われたんです。『オレらの代になったら、国大は変わるから。それまで我慢しろ』。大槻さんがいなかったら、もう辞めていたと思います」
国学院大とのオープン戦。0−1とリードされた国大は、8回裏1死二塁と同点のチャンスを迎え、打席には3番大槻が入った。大槻はカウント1−3からのストレートをコンパクトに振りぬくと、打球はバックホームに備え少し前よりに守っていたレフトの頭上を越えていった。 セカンド塁上でガッツポーズする大槻。それに呼応するかのように、ベンチでは全選手が両拳を突き上げ、喜びを表していた。ベンチ前で軽いキャッチボールをしていた野原も、その手を休め、ガッツポーズを見せた。 その後、2死二塁から、5番新井がセンター前へタイムリーを放ち、国大は2−1と逆転に成功した。
「抑えで登板します」とメールをくれた通り、9回表からは野原がマウンドに上がった。
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