加藤のメモ的日記
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| 2017年01月15日(日) |
日本の魚河岸文化 �� |
最初の魚河岸
大和王権の所在地がまだ北部九州にあった頃ハ、祭祀と日常食に用いる新鮮な魚介類を手に入れるのは、たやすい仕事だった。ところがその王権は、その後次第に東方への移動を始める。緊迫の度を深める大陸情勢を警戒して、北部九州を離れるのが賢明だと判断したからである。そしてとうとう、内陸の奈良盆地に入り込んだ。3世紀初めのころの話である。
四方を山々に囲まれたその土地は、軍事的に見れば確かに安全だったがいくつかの困ったこともあった。海から遠い内陸にあって新鮮な海の食材を手に入れるのが難しくなってしまったことなども、その困ったことの一つである。ヤマト王権は三輪山の麓につくった政庁の近くに、太陽神を祀る聖所を設けて、女王の率いる巫女団よる祭祀を続けようとした。しかし北部九州や移動途中の瀬戸内海沿岸ではすぐに手に入れることのできた、新鮮で上等な海産物の入手が難しくなってしまったのである。海産物の御供え物が手に入らないものだから、太陽神への祭祀は、しばしば滞りがちになった。
そこで海岸部から内陸部へ移転間もないヤマト王権は、海への通路を開こうとした。さいわい近くを流れる大和川は、途中いくつかの難所を過ぎれば、そのままゆっくりと大阪湾に注いでいく。ヤマト王権は大規模な土木工事をおこなって、竜田山の難所を切り開いて、中型の船が三輪山の麓までさかのぼってこれるような、運河を開削した。これによって、外国からの使節団も、船に乗ったままヤマト国の中心にやってこれるようになった。
それよりなりより、この運河の建設によって、内陸につくられた王権には、大阪湾から直接、新鮮や海産物が届くようになったのである。運河は三輪山の麓までにまで達していて、そこに「太市」という市場が開かれた。のちにヤマト連合政権の女王卑弥呼が、自身のための巨大な前方後円墳を築造することになる。まさにその場所である。
太市は運河に面していた。大阪湾から毎朝届けられる新鮮な魚介は、まずその運河の河岸に、荷揚げされたものであろう。最上等品は太陽神の聖所と王宮に運ばれ、そこで神と王族によって消費された。余った分が、市場で売りに出された。このときおそらく大阪湾の漁民が、荷主兼問屋兼仲買という立場で、市場での交換を取り仕切ったのであろう。内陸の王権のもとに新鮮な魚介類を届ける。日本の魚河岸の歴史は、ここから始まった。
アースダイバー
『週刊現代』12.10
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