加藤のメモ的日記
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2016年01月28日(木) シナトラとマフィアとケネディー ��

ジアンカーナの協力

マフィアコンプレックスを抱えていた一方、彼は意外な人物とも親交を深めた。当時はまだ上院議員だったジョン・F・ケネディーだ。ケネディーは言わずと知れたハーバード大学出身のインテリで、第二次世界大戦で勇敢に戦った英雄でもある。高校中退のシナトラは同時代のケネディーを特別視して崇めていたという。シナトラの娘ティナ・シナトラは著書で「父は昔から知っているマフィアと正反対で、自分とも正反対だという理由で賢い人たちに興味を示していた」と書いている。

ケネディーは、シナトラを通して間接的にマフィアを利用しようとしたと言われる。ちなみにシナトラは、既婚者だったケネディーに女性も紹介している。この女性、ジュデス・キャンベルは大統領になったケネディーと2年ほど付き合った。同時に、シナトラとかなり親しいマフィア、ジアンカーナの愛人でもあった。もともとケネディーの妹と結婚したイギリス人俳優、ピーター・ローフォードと知り合いだったシナトラは、そこからケネディーと彼の父親であるジョセフ・ケネディーと付き合うようになる。その背後にはシナトラ自身が民主党支持者であり、弱いものに情けを示すたちで慈善事業に積極的だったことも関係しているという。

ケネディーが1960年の大統領選に民主党から出馬すると、ジョセフはシナトラをマサチューセッツ州の別荘に呼び立てた。そしてこう切り出したという。「君と私は共通の知り合いがいる。誰のことを言っているかわかるだろう?」「もちろん」とシナトラは答えた。「私が会いにけば、ジャック(ジョン・F・ケネディー)に迷惑がかかる可能性がある。だが君ならできる。ジャックのためにできる最善の協力は、彼らに君の個人的な頼みだということで協力をお願いすることだ」シナトラはそれ以上何も聞かずに頷いた。ケネディーは大統領予備選を勝つためにどうしてもいくつかの劣勢だった州で勝利する必要があった。そこでシナトラは、FBIの盗聴を恐れてジアンカーナとゴルフに出かけ、ケネディのために協力を要請した。ジアンカーナは、「何本か電話を掛けたら片付く話だ」と言った。

その言葉通り、ケネディーはウエストバージニアやイリノイなど苦しい州で次々と勝利し、一気に勢い付いた。さらにジアンカーナは、ケネディーが大統領になれば利用できるともくろんで、ケネディー陣営に資金を提供し、あちこちで組織票も確保した。そしてケネディーは大統領の座を射止め、ジアンカーナは「あいつは俺のおかげで大統領になれたんだ」とうそぶいた。だが、話はこれで終わらない。

矛盾にまみれた人生

シナトラは思いがけない形で裏切られる。ケネディー大統領によって司法長官に任命された弟のロバートは、就任後数か月すると突如、”マフィア狩り”を始めたのだ。理由は、大統領選での協力が漏れるのを恐れたため、と言われている。ジアンカーナの側近たちには厳しい捜査の手が回り、ジアンカーナもどこに行くにも尾行がつく有り様だった。その後、シナトラは一度だけホワイトハウスにケネディーを訪ねている。だが父のジョセフと弟のロバートが、彼の訪問を好ましく思わなかったために、それ以降訪問することはなかった。そうしてケネディー家との関係は消滅した。

そして1963年、ケネディーはテキサス州で暗殺された。そのニュースを映画の撮影所で聞いたシナトラは、自宅の自室にこもって3日間出てこなかったという。ケネディーの裏切りがマフィアの逆鱗に触れケネディー大統領は暗殺されたのだ、とする陰謀説はいまだに根強く語り継がれている。弟のロバートも兄の死後4年半後に暗殺された。しかし、当のシナトラは、ケネディー大統領を責めることは一切なかったという。娘のティナは著書にこう記している。「彼は、自分に対して信義を守る人たちには必ず信義を守った」。

大統領を批判しなかったのは、子供時代からマフィアに囲まれながら育ったシナトラが自然と身につけた生きる術だったに違いない。そしてケネディーの一件から、イタリア系としての血への信頼をさらに強くしたはずである。マフィアとケネディーという相容れないはずの者を繫いだシナトラ。そのせいか、評論の多くは、彼の人生は矛盾に満ちていたと指摘している。シナトラも1963年のプレイボーイ紙とのインタビューで自分自身について、「強烈な感情の矛盾にまみれた人生を送ってきた」と語った。名曲『That`s Like』はこう終わる。操り人形、貧乏人、海賊、詩人、人質、王様/何にだってなってきた/そして一つ気が付いた/どんなに打ちのめされても/自分を鼓舞して/また戦いに戻るのさ彼の戦いの場には、常にマフィアの存在があったのである。




週刊新潮12.17  


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