加藤のメモ的日記
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2016年01月24日(日) シナトラとマフィアとケネディー ��

誰しも人には言えない秘密の一つや二つはあるという。生誕100年を迎えるフランク・シナトラの最大のタブーはmイタリア系マフィアとの黒い交際。ケネディー大統領誕生には彼の仲介でマフィアが一役買い、FBIも両者の関係を長年追い続けていたのだ。


リスナーに語りかけるような独の特甘いバリトン・ヴォイスで20世紀を代表す
る偉大な歌手として活躍したフランク・シナトラ。60年を超えるキャリアの中で31枚のゴールド・アルバムを世に送り出し、9度のグラミー賞に輝いたシナトラは伝説的な歌手と呼ぶにふさわしい。

12月12日、フランク・シナトラが誕生してから100周年を迎える。アメリカでは今、その生涯を祝ったイベントが目白押しである。ハリウッドでは、シナトラに影響を受けた有名歌手が多数出演するコンサートが開催され、その様子は全米にテレビ中継された。1998年に82歳でこの世を去ってから17年。現在でも彼が崇められる理由は、エンターてぃなーとして功績だけではない。そのスキャンダラスな人生と波乱に満ちた生き様が、シナトラの伝説をさらに魅力的なものにしているからだ。

シナトラは生前、数多くのナンバーワンヒットと生み出してきた。その代表作の中には、1966年50歳の時に歌った「That`s Life」という名曲がある。人はそれが人生だという/4月には飛ぶ鳥を落とす勢いでも/5月には撃ち落される/だけどうまく流れを変えて/6月にはまた頂点に立っているのさ

むちゃくちゃな契約に縛り付けられたり、恩を仇で返されたり……。シナトラの人生はこの歌詞のごとく、まさにアップダウンの連。そして、その生き様を語る際欠かせないのがマフィアの存在である。1998年、FBI(米連邦調査会)は、「シナトラ・ファイル」ならぬ捜査書類の機密を解除し、一般に公表した。1275ページに及ぶ機密文書は、FBIがシナトラとマフィアの関係を40年以上にわたって追いかけてきた事実を明らかにした。

文書には、シナトラと付き合いのあったマフィアの大物が次々と登場する。アル・カポネの元幹部でシカゴマフィアのボスだったサム・ジアンカーナ、全米最大といわれたガンビーノ一家を率いたカルロ・ガンビーノ、史上最も悪名高いドンといわれたニューヨーク暗黒街の支配者ラッキー・ルチアーノ、西海岸にはマフィアを作ったバグシー・シーゲルなどだ。彼らこそアメリカのマフィア史に名を刻んだ面々である。

そもそもシナトラの人生にマフィアが絡むのは仕方のないことだった。1915
年、ニュージャージー州で生まれたシナトラは、イタリア系移民の一人息子として育つ。大恐慌と禁酒法の時代にあって、母親はレストランに見せかけたスピークイージー(違法酒場)を経営していた。近所はギャングだらけでその酒場はマフィアの巣窟になっていたとの話もある。事実、シナトラの叔父らはマフィアの世界に足を突っ込んでいた。

歌手を目指したシナトラは、ニューヨークのナイトクラブから頭角を現した。当時j、ナイトクラブはマフィアが裏で牛耳っており、シナトラの周囲にその手の人々がうろついているのは自然なことだった。この頃のシナトラについて、こんな逸話が残っている。シナトラは20代後半、ソロになるために彼の名を売ってくれたバンドを去ることに決めた。だがバンドのリーダーは難色を示し、結局、シナトラの収入から33%を生涯受け取るという常識では考えられない契約を結ぶことで脱退を許す。ソロシンガーになったシナトラはすぐに最初のブレイクを迎えたのだが、するとこの契約が何かと邪魔になった。そこで彼はニュージャージーを仕切るマフィアの幹部で、子供時代近所に住んでいたウィリー・モレッテイに契約問題の解決を依頼した。モレッテイはバンドリーダーと会い、その口に拳銃を突っ込み、1ドルで契約書を買い取ることに合意させたという。

マフィアコンプレックス

誤解のないように言うが、フランク・シナトラという偉大なエンターティナーは、決してマフィアによって作り上げられたわけではない。当時、他のエンターティナーらがそうだったように、キャリアを築く上でマフィアの存在は避けられなかったといわれる。とはいえシナトラにとってマフィアは『特別な存在』であったことは間違いない。FBIは1962年の機密メモで、シナトラはマザコンならぬ『マフィア・コンプレックス』があったと記録している。そして「もし彼に勇気があったなら、ショービジネスでの地位を捨ててでもマフィアになっていただろう」と。 

彼の人生に、それを示唆するエピソードは少なくない。例えば1940年代後半から、シナトラの人気が一気に低迷したのは、マフィアとの交友が発覚しスキャンダルに発展したからだ。1947年、シナトラはシカゴの悪名高いマフィアであるフィスケッテイ兄弟とともにキューバのハバナに降り立った。目的は、過去最大級となるマフィアの集会に出席するためだった。そこではアメリカからイタリアへ追放処分になっていたラッキー・ルチアーノや、ニューヨークのボスで「暗黒街の首相」と呼ばれたフランク・コステロといった大物マフィアから、アメリカ各地を収めるボス連中が大集結していた。シナトラは彼らのためにコンサートを行い、ハバナ滞在中は存分に羽を伸ばした。裸の女性を侍らせ、マフィアらと一緒にスイートルームでの乱痴気騒ぎを起こしている。

ルチアーノは後に当時について、シナトラが歌手として成功したことを祝うためだったと語っている。「奴がまだ十分に稼げない頃に金銭的に支援をしてあげたこともある。そういうサポートが彼をトップスターにする手助けになったから、わざわざ感謝を示すために奴はハバナまでやってきたのさ」(ルチアーノ)だが不運なことに、アタッシュケースを手にマフィアとともに飛行から降りる様子は、見事にマスコミに撮られてしまう。結局、子のハバナ旅行は米国内で大スキャンダルに発展し、メディアの中にはシナトラがマフィアのために200万ドルの現金を運んだと主張するものもあった。

では、シナトラはなぜ「マフィア・コンプレックス」があったのか。それは、イタリア系移民の子として肌で感じてきた差別が深く影を落としていたとされる。これが同じイタリア系の多いマフィアとの結束感を生み、親密な関係につながったという。シナトラ自身はキャリアの絶頂期を過ぎた1970年代に、こんなことをインタビューで語っている。「ハリウッドだろうがニューヨークだろうが、蝶ネクタイをして最高のクリスタルグラスを使う上品なパーティーでも、部屋の隅からこんな風に俺のことを思いながら見ている奴がいるんだ。イタ公め、ってね」

だからこそ、1940年代から50年代後半、どん底にいた時、映画『地上より永久に』に抜擢されてアカデミー賞助演男優賞を獲得したとき彼が頼れたのはマフィアだけだった。実際、マイアミからラスベガスに至るまでのナイトクラブを治めていたマフィアたちは、自分たちの店にシナトラをブッキングして支えた。マフィアとの関係を忌み嫌っていた妻のガードナーにも、「誰も仕事をくれない時期に仕事をくれたのは彼らなんだ」と諭したという。



『週刊新潮』12.17


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