加藤のメモ的日記
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2015年01月04日(日) 高倉健 ��

あ1976年の東映退社後は、女性ファンも獲得したが、「やはり大きかったのは、山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』(‘77)です」と川本氏は続ける。「松竹伝統のホームドラマ的な作品に出演することで、そのイメージは単なるアウトローではなくなりました。その後、降旗監督の『駅』(‘81年)『鉄道員』(‘99年)に出演して、より多くの人に愛されることになりました」

他にも‘76年『君よ憤怒の河を渉れ』、‘77年『八甲田山』‘78年『野生の証明』……。いずれも東映退社後、他の映画会社で製作された作品だ。任侠映画のファン層を超えて誰もが愛することとなった健さんの作品群は、困難の中であがき、新しい路線を模索する中で出会った企画の数々だったといえるだろう。

短かった幸福を思って

プライベートの情報は極力明かさずにきた健さんが、たった一つ、プライベートでニュースの話題になったことがあった。それが1958年の歌手・江利チエミとの結婚、そして‘71年の離婚だ。江利チエミは、美空ひばり、雪村いずみと「三人娘」と呼ばれた戦後期を代表する歌手。明るくコミカルなキャラクターで知られ、寡黙な健さんのイメージとは正反対のようにも思えるが、前出の中島監督は、「そんなに以外ではなかったね。当時の健ちゃんはまだ若くて、もう少し気さくな面も見せていた。当初はうまくいくかもしれないと持っていたんですが」と話す。「

実際には夫婦仲は悪くなかったが、江利の成功を妬んだ異父姉が二人の間に入り込み、悪口で互いの不信感を煽った挙げ句、2億円もの資産を使い込んで失踪するなどしたため、江利の側から「これ以上迷惑をかけられない」と離婚の申し出がなされたという。二人の結婚での幸福な時間は短かった。‘62年には子供を授かるものの、重度の妊娠中毒症と江利の過労も重なり、やむなく中絶。江利は都内の霊園に供養塔を建立し、離婚後も健さんはここに足を運んで供養を続けていたという。

また、江利が‘82年に脳溢血で急死した後は、命日に世田谷区の法徳寺にある墓を必ず訪れていた。さらに今回の取材で、健さんが江利との日々を大切に思っていたことを示す、新たな証言も出てきた。「離婚の前年の‘70年に、健さん夫婦が暮らした世田谷の自宅が火事で全焼しました。異父姉による放火説もあったが、最終的には原因不明で、漏電だろうと言われています。

自宅の跡地はその後、空き地になっていたのですが、庭にあった木の枯葉がいくつか、隣家に、舞い落ちていた。隣家の住人は気にも留めていなかったところ、ある日、健さんから〈枯葉でご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません〉と詫び状が届いたそうです。つまり、健さんは枯葉が隣家に落ちているのを知っていた。二人が暮らした場所を、人知れず見に来ていたからでしょう」(芸能プロ社長)奇しくも、健さんが逝った11月10日は、昭和の名俳優・森重久彌(‘09年逝去)の命日でもある。昭和という時代を照らした大きな明りがまた一つ消え、私たちはまた一段、淋しくなった。


『週刊現代』12.6


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