加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will


2015年01月02日(金) 高倉健 ��

どんどん高倉健になった

中日ドラゴンズの監督を演じた米国映画『ミスター・ベースボール』(1992年)では日本側製作総指揮を務めたプロデューサー近藤真氏(85歳)は語る。「アメリカの制作陣は、日本側の主演俳優を決める前、健さんを含めた複数の候補者を考えていましたが、私は『高倉さんしかいない』と強く推しました。その後、アメリカの制作陣が健さんと直接会ったところ、『この人は本物だ』と誰もが納得し、出演依頼が決まったのです。

健さんも新しいことに挑戦する意欲が強く、野球監督という役柄や、脚本を気に入って、出演してくれることになりました。この映画の撮影前から、健さんは英語が話せたのですが、撮影に入るまでにさらに英会話を完璧なものにしていました。だから、英語の台詞も吹き替えやカンニングペーパーの類は一切なし。アメリカ人スタッフも健さんのプロ意識に敬服していました」終戦後のアメリカ分化の流行全盛時代に若き日を過ごした健さん。無類のコーヒー好きも、この時期の経験から来たのだろう。

本来はハイカラな洋風文化にあこがれて育った健さんだったが、「日本の男」を体現する使命を自らに課し、頑なまでにそれを守り続けたのだ。一方で、俳優という職に就いたのはまったくの偶然からだった。貿易商になることを夢見て明治大学商学部を卒業したものの、希望するような就職口がなかった。1955年に知り合った伝手で、芸能プロダクションのマネージャー募集の面接を受けたときにスカウトされ東映入社。翌‘56年には早くも『電工空手打ち』で映画主演デビューした。しかし後年、自伝の中で「撮影用のドーランを塗られた顔を鏡で見て、情けなさに泣いた」と胸中を告白している。

『ああ、「じ同期の桜』(1967年)などでメガホンをとった中島監督はこう語った。「健ちゃんのストイックさは有名ですが、『網走番外地』シリーズなどを撮り始めた1960年代半ば頃までは、まだそこまで役柄に対して頑なではなかった。その後、『日本侠客伝』シリーズなどが当たり、義理と人情の高倉健像が固まるにつれて、役へのこだわりも強くなりましたね。どんどん、本人が『高倉健』という人物を演じていたというのではなく、いつしか健ちゃん本人が『高倉健』と一致していったのでしょう。強く希望してなったのではない。俳優という職業。だが、持ち前の義理堅さと筋を通す姿勢で健さんは自ら『高倉健』という俳優像を突き詰めていった。

作家・評論家の川本三郎氏(70歳)は、健さんの作品の移り変わりをこう見てきたという。「1960年代の若者の間で、『網走番外地』や『日本狭客殿』が熱烈に支持された理由の一つは、暴力を肯定したことにあると思います。戦後民主主義の中で暴力は禁じられていましたが、あの頃はベトナム戦争などがあり、国家による正義への信頼が揺らいでいた。若者たちは最後は暴力しかないと思い詰め、これが健さんの映画の価値観と一致した。健さんが演じた男たちにとっても暴力は最終手段。我慢に我慢を重ね、ドスを抜くのは最後でした。それを全共闘世代の若者たちは。ゲバ棒に頼らざるを得なかった自分たちと重ね合わせたのでしょう」


『週刊現代』12.6


加藤  |MAIL