加藤のメモ的日記
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2014年12月30日(火) 高倉健 ��

日本人に愛された昭和の男が、また逝った

汗にまみれ、泥にまみれた男 。血しぶきに染まった男。義に生き、筋を通した男。世渡りの下手な男。あなたこそ日本人の「理想の男」だった―。

律義な男

「他の人には真似のできない役者でした。脚本を書くとき、『高倉健だから演じられる』という役を書くことはできたけれど、健さんがいなくなると、もうその役は誰も演じられない。健さんが演じていた役も、もう書けなくなる」脚本家の倉元聰氏(79歳)は、こう肩を落とした。日本人が本当に愛した、昭和を代表する男が逝った。俳優・高倉健(享年83)。11月10日、都内の病院で悪性リンパ腫のため亡くなった、次回出演作の準備中に体調を崩し、そのまま入院、他界。急逝と言っていい、思いがけない死だった。

映画の世界で生きてきた健さん。倉本氏は、その健さんが出演した数少ないテレビの連続ドラマ『あにき』(77年・TBS系)の脚本を担当した。今はただ「びっくりして、茫然としている」と話す。「僕みたいな不摂生性な人間が生き延びて、あんなに健康を気にしていた人が亡くなってしまうなんて……。僕は健さんが好きでした。男の美学をしっかり持っていた。あれほどまでに『男』というのもを突き詰めて考えていた人はいない。古武士のような人でした」男の中の男。健さんを知る誰もが、そう呼んではばからない。

東映時代の後輩で、『網走番外地 吹雪の闘争』(‘67年)などで共演した俳優の谷隼人氏(68歳)は、「19歳の時、初めてお会いした15歳年上の健さんに、すぐに惹きつけられた」とその魅力を語る。「とにかく男っぽい人で、男兄弟のいない僕には、兄貴のような存在に思えました。僕以外にも、小林捻冶さんなど、健さんに心酔した後輩は大勢います。周囲をよく見ている人で、誰かが困っているとさりげなく助けていました」

谷氏は『網走番外地 吹雪の闘争』の撮影当時、東映入社2年目で20歳そこそこだった。「北海道ロケが終わり、僕が健さんに『お疲れさまでした』と挨拶して帰京しようとすると、『谷、ちょっと待て』と呼びとめられた。『カネはあるのか』って。本当はなかったのですが、心配をかけたくなくて『大丈夫です』と答えると、『このやろう、ふざけんなよ!』とポンと2万円渡してくれたのです」

健さんは、人に何かをプレゼントするのが好きな、心配りの人でもあった。東映の後輩、千葉真一氏(75歳)は、デビュー当時、学生服しか撮影所に着てくる服がないことに気づいた健さんから、まだ新しいスーツをお下がりにもらった。また米国映画の『ブラック・レイン』で共演したハリウッドスター、アンディ・ガルシア(58歳)は、撮影が終わり帰国する際に、健さんから時計を送られた。これについてガルシア氏は、「私も自分の時計を彼に渡そうとしたが、彼は固辞した。彼の意図は与えられることではなく、与えることだった」と述懐している。

芥川賞作家の丸山健二氏(70歳)は、2004年に「主演・高倉健」と銘打った小説『鉛のバラ』を上梓した。その際、健さん本人と交流し強い印象を受けたという。「健さんが主人公を演じることをイメージして小説を書きたい、とお願いしたところ、二つ返事で了承してくれ、その後、長野県の安曇野市にある僕の家に2度、遊びに来てくれました。健さんは愛車のジャガーを運転して一人で来たのですが、驚いたことに約束の時間に一分の狂いもなく到着した。我が家への道は分かりにくくて、始めて来る人は間違いなく迷うのです。『良く迷いませんでしたね』と尋ねると、『実は前日のうちに予行演習しておきました』。前の日に我が家の前まで来ていたという。無類の律義さだと思いました」

代のコーヒー好きで知られる健さんは、当日手土産にコ−ヒー豆を持参し、後日には豆を挽くミルも送られてきたという。丸山氏が芸能界とは縁遠い存在ということもあってが、健さんは同氏に胸襟を開いて、ざっくばらんにさまざまな話をした。「我が家にきて早々、健さんは『世間では僕のことををホモと言っていますが、違いますからね』と言ったので驚きました。(笑)面喰いましたが、世間のうわさ話も気にされていたんでしょう。家内の料理も食べてくれたんですが、『糖尿病なんですよ』と言うのでそばにしました。病気を気遣っているようで、ペットボトルに自分用の水を入れて持ち歩いていました」(丸山氏)

自分は観られる側になりたくなかった、本当は観る側でいたかった、とも語っていたという。丸山氏は話を聞いて、こう感じたという。「俳優は、仕事としてやっているという意識だったのだと思います。プロの自覚が強い人なので、世間が抱く『高倉健』の印象に自分を合わせていたのでしょう。

俳優・高倉健=本名・小田剛一の軌跡を追ってみると、意外な一面も見えてくる。健さんは1931年、福岡県中間市に生まれた。父親は旧海軍軍人で、炭鉱労働者の差配をしており、家は裕福だった。中学生の時終戦を迎えると、「これからは英語の時代だ」と友人たちに語り、進駐軍の将校の家に押しかけて英語を学んだ。アメリカ分化に接するる中で、鍛え上げた男と男がぶつかり合うボクシングにも熱中した。学校ではボクシング部、英会話部を自ら創立している。


『週刊現代』12.6


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