加藤のメモ的日記
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| 2014年01月19日(日) |
田母神俊男論文 �� |
わが国は満州も朝鮮半島も日本と同じように開発しようとした。当時、列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとしたのは日本のみである。我が国は他国との比較でいえばきわめて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝国は成立当初の1932年1月には、3.000万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5000万人にも増加していたのである。満州国の人口はなぜ爆発的に増え続けたのか。それは満州が豊かで治安がよかったからである。侵略といわれるような行為が行なわれるところに、人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年間で日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。
朝鮮半島も日本統治下の35年間で1.300万人の人口が2.500万人と約2倍に増えている。『朝鮮総督府統計年鑑』これは朝鮮が豊かで治安がよかった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが日本軍によって破壊されたかのようにいわれている。しかし、実際には日本政府と日本軍の力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
わが国は、満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り、現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また、1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学をを設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が、1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に、朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また、日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翔(ホンサイク)陸軍中将がいる。
この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩には金錫源(キンソグオン)大佐がいる。に抽選層のとき、中国で大隊長であった。日本兵約1000名を率いて何百年も虐められ続けた元宗帝国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより、天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名躁師解明などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し、新潟の高田の連隊で隊付教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で、何応鉄(カオウキン)もいる。李王朝の最後の殿下である季根(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。イウン殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと、陸軍士官学校をご卒業になった。
陸軍では、陸軍中将に栄進されご活躍された。このイワン殿下のお后となられたのが日本の梨本栄方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりなら、このような高貴なお方をイウン殿下の下に嫁がせることはなかったであろう。ちなみに宮内省はお二人のために、1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝、また満州帝国の皇帝であった溥儀(ふぎ)殿下の弟君である。フケツ殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族。嵯峨(さが)治妃殿下である。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると、日本の満州や朝鮮、台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違ったていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人を士官学校に入れることもなかった。イギリスの王室からインドに娘を嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然のと考えられていた当時にあって、画期的なことである。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本人が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界をみれば、当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ、1901年に我が国を含む11カ国とのあいだで義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を確保し、当初2600名の兵を置いた。また1915年には、袁世凱(えんせいがい)政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分を入れて、いわゆる対華21ヶ条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人もいるが、この要求が列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものだとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし、4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21ヶ条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは、日本の言い分を支持してくれたのである。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件のときでさえ5600名にしかなっていない。この時の北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが。我が国の基本方針であり、それは昔も今も変わらない。
『田母神俊男論文』
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