加藤のメモ的日記
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| 2013年07月26日(金) |
アンネ・フランクはなぜ殺されたか�� |
1941年12月、ヘルムノでは一酸化炭素による。初めてのユダヤ人殺戮が行なわれた。それは「会議」よりひと月も前のことだった。いや、それ以前、すでに夏にはアウシュビッツでチクロンB を使った実験が行なわれていた。ハイドリヒ自身、初期の殺戮とゲットーの設置を「暫時的処置」、「一時的処置」と呼んでいた。そして今、最終的処置がどのようなものか、その正体が明らかになった。
安楽死計画を担当していた二人、クリスティアンとブラックの指導のもと、六つの収容所が殺戮施設になった。最初にアウシュビッツで、その後ヘルムノで、チクロンBが使われた。それはもともと害虫とネズミの駆除に使う毒薬だった。その他の収容所では一酸化炭素ガスが使われた。その目的のために回転するディーゼルのモーターから、一酸化炭素ガスが管を通して部屋に送り込まれた。
到着から、死体の処理まで
いったい何が起ころうとしているのか、それが犠牲者に気取られないように、到着に使われるプラットフォームと建物が設計された。樹木に囲まれていたので、外からは見えない。到着した人々は目的地に着くまでの一時的な滞在のための収容所、あるいは労働収容所だろうという印象を持った。実際にガス室に送り込まれるまで、そう思っていた。ガス室には偽物のシャワー栓が取りつけてあって、浴室のように見せかけてあった。
到着から死体の処理まで、可能なかぎり速やかに行なわれた。犠牲者は汽車から追い立てたれて降りると、最期の瞬間に至るまでせかされた。そのような方法には、犠牲者に衝撃を与え、驚かせ動揺させ、いったい何が起ころうとしているのか考える余裕も与えない、という印象があった。犠牲者は混乱に陥り、抵抗もせず命令に従った。混乱の度がひどければひどい程、親衛隊の仕事は容易になるというものだった。作業は手早く、単純だった。汽車から人々を降ろし、荷物を積み上げる、そして生かしておく者を選別する。まったく選別は行なわれず、即座に全員ガス室で殺されることもあった。
選別が住むと、移動するように命令された。走らされることが多かった。それから裸になれといわれた。ある者は進んで、ある者は強制されて、ガス室へ入っていった。厚い扉が密閉されると、ほんの数分のうちに全員窒息死した。選別され、生かしておかれたユダヤ人の中には、ガス室から死体を運びだせと命令された者たちがいた。死体についていた宝石類と金歯を集め、衣服と荷物を調べ女性の髪を切り取れと命令された。
そしてその後、彼らと他のユダヤ人が素手で、あるいは手押し車で死体を穴へ運んでいった。最初のことは遺体はひとまとめにして埋められた。のちには焼かれた。アウシュビッツやブーヘンヴァルトなどの強制収容所では、死体を焼く目的で設計された大型の焼却炉が使われた。炉に死体を入れ、灰を取り出す作業も、まだ殺されていなかったユダヤ人の手によって行なわれた。
生き残る
収容所で生きながらえたユダヤ人がいたことは、信じ難い。しかし事実生き延びた人々もいたのだ。選別を逃れたのは運がよかったかもしれない。あるいは何らかの偶然によって、選別や殴打や病気を免れたのかもしれない。しかし生きながらえたのは運や偶然によるものではなかった。収容所の規則は生き延びることを不可能にするように特別に考えだされたものだ。そのような場所で生き延びるには、何とか方法を見つけることが必要だった。方法はあった。生き延びるための手段を表す言葉はすべての収容所に共通していた。その言葉は「画策する」だった。ある生存者の次のような言葉が、その意味を最もよく説明している。
「アウシュビッツの用語で最も重要だったのは「画策」するだった。生き残るカギを握っていたのはこの言葉だった。それは盗みや買うことや、交換すること、獲得することを意味していた。どんなものでも、交換するものがなければ手に入らなかった。目覚めている時間のすべてを、「画策」することに費やしていた人々もいた。仲間から盗んだり、賄賂を使ったり、パンのかけらを一杯の水と交換したり、一枚の皺くちゃな紙と寝る場所を交換したりした」
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