加藤のメモ的日記
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| 2012年04月25日(水) |
大地震は60年ごとに起こる(15)�� |
その直後、私は自分の体が宙に浮くのを感じました。高さは2メートルほどで、すぐに落下しました。幸い綿毛布の上に落ちたので骨を折ることもなくすみました。これは最初のつむじ風ですが、高く巻き上げられた人も多くいたようです。囂々という音がしてあたりは真っ暗になり、その中を大八車が回転しながら空に上っていくのを見ました。私は、急いで綿毛布を頭からかぶりさらに近くにあったゴザの下にもぐりこんで突っ伏していました。眼が暗さに慣れて周囲を見渡しますと、近所の方々も所々により固まってうずくまっていました。
風は相変わらず物凄く、そのうちにあたりが急に暗くなりました。ガスに点火でもしたように、荷物が、一時に炎をあげはじめたのです。と同時に、それらが旋風に乗って舞いあがり、飛び交いはじめ、人の群れの中に落下するのです。悲鳴が所々で起り、人々がつぎつぎに倒れてゆきます。私は息苦しくなったので、地面に顔を伏せると呼吸が楽になることに気付きました。私は、炎の間を逃げまどいながら、息が苦しくなると地面に伏して息を吸いました。その頃には、すでに息絶えた人の体が所々にころがっていて衣服から炎が起こっていました。
そのうちに、後方から火勢が強くなったらしく、「わーッ」という叫び声がして大群衆が私の方に迫ってくるのが見えました。それは何千という人の数で、体をぶつけ合いながら狂ったように駈けてきます。踏みつぶされたら殺されることははっきりしていますので、地面近くの空気を吸って走り出しました。その時、横を走っていた30歳前後の夫婦の連れていた子供が、何かにつまずいて倒れ、母親が抱き起そうと立ちどまりました。が、夫は妻の手を強引に引っ張り子供を置き去りにして走っていってしまいました。子供はおそらくすぐ後方に迫っていた大群衆に踏み殺されたに違いありませんが、子供を抱き起こしたりすればその母親も押し倒されたと思います。いずれにしても恐ろしい光景でした。
多くの人々が死体の山を乗り越えているのが見えましたが、その上を越えるときに倒れる人もいて、その上にほかの人が積み重なってゆきます。注意してみますと、倒れる人は死体の腕や大腿の上を踏む人に限られ、丸みがあるので足が滑るのです。それに気付いた私は、倒れた人の胸や背中を踏んで走り死体の山をようやく乗り越えました。息が苦しく何度しゃがみこもうとしたかわかりませんが、そんなことをしたら踏み殺されますので、群衆の中にもまれながら走り続け、ようやく人の動きが鎮まりましたすきに地面に顔をつけて息を吸いました。
その間にも木材や家財が舞い上がり落下するので、悲鳴が絶え間なく続いていました。私は、何千人とも知れぬ人々とともに右へ左へ移動することを繰り返していましたが、不思議なことに倒れた人の体はすぐに火が燃え移ります。衣服も焼けはがれて裸体同然ですのに、たちまち人の体が炎に包まれることが不思議に思えました。馬車も群衆ともに右往左往していましたが、馬がひどく暴れ、そのため多くの人が蹴り殺されていました。東京市の川は、死体におおわれた。とくに隅田川には、火に追われ川の中に飛び込んだ者たちの溺死体が無数に浮遊していた。当時東京府府議会長堀江正三郎も京橋区明石町に住み、2000坪ほどの空き地に避難していたが、猛火に追われて川の中に飛び込み死をまぬがれた一人である。かれの回想によると、
「空き地にはすき間のないほど荷物が積み上げられていましたが、新橋、銀座、八丁堀の各方面からの猛火が迫って、荷物に火がつきました。三方からの火炎に包まれましたので、後方の大川に飛び込む以外に方法はありません。人々は悲鳴を上げながら、一間半の高さのある明石町川岸から大川に飛び込みはじめました。幸い岸近くの水の深さは4,5尺ほどでしたので、私は辛うじて胸まで水につかって立っていることができましたが、女や子供は溺れ死んでゆきました。見渡すと佃島の渡船場からはるか水上警察署のあたりまで川の中に黒く太い人の列ができていて、その上に荷物を焼く火の粉が降りそそいでいます。頭や顔が焼けるように熱いので、私は幾十度となく水の中にもぐりました。川に浮かんだ船にも人が多く乗っていて、その船にも火が移り、助けてくれ助けてくれと泣き叫んでいましたが、救うどころではありません。私が、しばらく石垣から這い上がったのは、翌日の朝でした」
東京市の死者数の最大のものは焼死者で52.178名、それにつぐ死者数は溺死によるもの5.358名で、圧死者727名の7.4倍強にも達している。つまり河川は、避難者を炎から救うと同時に彼らの生命をも奪ったのである。もともと河川は、広い道路や高架鉄道線路などと同じように火の流れを阻止する防火線の役目を持っていたが、その上に架かった橋が焼けることによって対岸へ火はのびた。神田区の俎板橋や月島の相生橋は、燃えた船が橋の下に流れてきて焼けたが、それは特殊な例で、大半が避難者の持つ荷物に引火して焼け落ちたのである。
地震につぐ火災で、人々は炎に追われて道路を逃げまどった。と同時に、それは家財の大移動でもあった。当時の避難地の写真を見ると、どのようにして運び出したのかと思われるほど大きな荷物を背負った人の姿が数多く見える。馬車、大八車にも荷が満載され、人々は荷物のあいだに埋もれていた。かろうじて持ちだした家財の消失を恐れるのは当然の人情だが、それらが道路、空き地、橋梁などをおおい、その多量の荷物が燃え上がって多くの焼死者を生むことになったのである。道路、橋梁が家財で充満したために、人々は逃げ場を失い、消防隊もその活動を妨げられた。関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい。火災時に搬出される荷物については、すでに江戸時代かその危険が鋭く指摘されていた。
災害の中心となった東京府と横浜市の人口は約450万名であったが、知る手掛かりを失った彼らのあいだに不気味な混乱が起こりはじめた。彼らは、正確なことを知りたがったが、知ることのできるものといえば、それは他人の口にする話のみに限られた。根本的に、そうした情報は不確かな性格をもつものであるが、死への恐怖と激しい飢餓に怯えた人々にとっては何の抵抗もなく素直に受け入れられがちであった。そして、人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形して、しかも突風にあおられた野火のような素早い早さで広がっていった。
流言はどこからともなく果てしなく沸いて、それはまたたく間に巨大な怪物に化し、複雑に重なり合い入り乱れ人々に激しい恐怖を巻き起こさせていった。地震の直後には津波が襲ってくる確率が高いということは、人々の間で常識化した知識であった。彼らには、明治29年6月に三陸海岸を襲った大津波の被害が鮮明な記憶として残されていた。その折も、同地方に烈震があった一時間半後に激烈な津波が沿岸約400�劼砲錣燭辰峠瑛茲掘�13.000戸の家屋が全壊・流失し、死者も22.000名という多数にのぼった。
関東大震災でも、大島、伊豆半島、房総半島、三浦半島、鎌倉に最高12メートルの津波があり、多くの人家が流失した。が、津波の被害はkそれらの地域に限定され、地震・火災による被害と比較するとはるかに軽微なもので、まもなく鎮まっていた。しかし、それらの情報を知らぬ人々は、津波襲来に動揺した。火責め水攻めという言葉が誰の口からともなく起こって、火災発生後の津波襲来におびえた。東京でも、土地の低い下町方面に津波来襲の流言が人々の口から口に伝わり、山の手方面に逃げる者が多かった。東京には津波襲来の事実はなかったのだが、それは確実な情報として人々の間に伝わったのである。
罹災民は、地震発生直後から平時では見られぬ人間性の本質をむき出しにした市民の姿を数限りなく眼にしてきた。人々は他人を死に引きずり込んでも自分だけは生きたいと願う。親は子を捨て、子は親を見殺しにし、自分以外のものに心を配るゆとりは皆無だった。さらに人々は、無警察状態の中で醜い人間の行為もしばしば目撃した。火の鎮まった地域には、どこからともなく姿を現した者たちが死体の連なる中を歩き廻っていた。
かれらは、死体の携行していた手提げ金庫を壊して内部の物品を掠め取り、川岸に漂流する荷物をあさって歩いた。また死体の指輪から指輪を搾取することを専門とする者も多く、指輪を見出すと刃物で指ごと切り取り袋におさめる。中には、死体の口をあけて金歯をえぐり取る者もいた。そうした行為を数多く目撃してきた人々は、人間に対する不信感と畏怖を根強く抱くようになっていた。殊に集団を組む人間が、混乱しきった災害時を利用して行動を起こしはしないかという不安が醸成されていた。そして、流言も人々の恐れを反映した内容を持つものが流れはじめたが、囚人に関する流言も、その一つであった。
『関東大震災』 吉村昭
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