加藤のメモ的日記
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2012年04月24日(火) 大地震は60年ごとに起こる(15)��

大正12年9月1日、午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、さまざまな流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していく。20万人の命を奪った大災害。



振動は押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから15,6秒後には想像を絶した激烈さにまでたかまった。その瞬間、戦慄すべき現象が起こった。中央気象台では明治9年以来地震観測を行なっていたが、観測室に置かれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊されてしまったのだ。地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動がはじまった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに振動が激化すると同時に破損してしまっていた。ただ二倍地震計のみが振動の最も激しい部分に達してからもかろうじて動き続け、それも5秒後には他の地震計と同じように故障してしまった。

地震学教室員は驚愕し、客員の中には観測を放棄して建物の外によろめきながら飛び出す者もいた。オーストラリアの汎太平洋学術会議に出席中の主任教授大森房吉の代行として地震学教室の指揮をとっていた今村明恒助教授は、波打つように揺れるは室内に踏みとどまって二倍地震計の針が描いた記録紙の線を凝視していた。最大振動時に達した時、彼は、振動が急速に弱まるに違いないと予想した。それは、長年地震観測に従事してきた豊かな経験によるものだったが、意外にも振動はそのまま継続した。大地は激しく波打ち、立っているのが困難になった。そのうちに、幾分ゆるやかになったと思った直後、再びすさまじい振動が襲ってきた。恐怖が彼の体を硬直させた。かれは、安政大地震以来の大地震が発生したことを一個の人間として感じ取った。

横浜市は、神奈川県庁の所在地であるとともに日本最大の港湾都市でもあった。外国人の居住・滞在者も多く、官庁、商社も設けられていて、その烈震は市の機能を完全に壊滅させた。横浜市の家屋倒壊戸数は、全壊9.800、半壊10.732、計20.532戸に達し、全戸数98.900戸の20%強に及んでいる。殊に洋館は石造またはレンガ造りなので耐震性はなく。最初の強震でひとたまりもなく崩壊してしまい、内部にいた者は逃げる余裕もなく大半が圧死した。その他官庁の大半も倒れ、横浜裁判所では末永所長以下100余名がすべて圧死した。

激烈な地震は、大地に深い亀裂をはしらせ、山崩れを誘い、川岸を崩壊させ、鉄橋を河中に墜落させた。700年前に造られた鎌倉の長谷にある大仏も50センチ地下にもぐり、さらに40センチ近くも前にせり出したほどであった。

その日、風邪向きは南または南東で、風速は低気圧の影響を受け10メートルから15メートルとかなり激しいものであった。また夏季であったので火鉢、こたつなどの暖房具はなかったが、地震発生時が午前11時58分44秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭ではかまど、七輪などに火を起こして昼食の支度をし、街の飲食を生業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。地震が突然起こった時、人々は激烈な震度に狼狽してかまどなどの火を消す精神的ゆとりをもつ者は少なかった。殊に倒壊した家では圧死から逃れるだけが精いっぱいで、かまどや七輪におこっていた火の上に材木や家財がのしかかり、たちまち火災が起こった。

また天ぷら屋などの飲食店では、激しい振動で油が鍋からこぼれ出て引火した。さらに最大の発火原因になったのは、薬品だった。学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局などにあった薬品類は、棚などから落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校、富士見町の日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部などからそれぞれ出火した。

消防署は全力をあげて消火につとめたが、頻発した火災の勢いは激甚を極め、それに対抗するにはあまりにも非力だった。風も火災発生と同時に激しさを増し、日没頃から夜の11時頃までには風速も26,7メートルという烈風と化し、市内一面に猛火が轟々と逆巻いた。さらに水道はいたるところで破壊され、浄水場の電力も絶えて水路は完全に断絶してしまった。そのため、河川、濠、下水などに水を求めポンプの中継によって放水したが、その効果は薄く、避難民の群れにも妨げられて消防隊は苦闘した。中には猛火に包まれた隊もあって、22名の殉職者と124名の重軽傷者を出した。

東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸中の39万924戸に及んだ。239戸が半焼し、死者・行方不明者(圧死・溺死を含む)68.660名、重軽傷者26,268名に達した。火災の発生から鎮火まで42時間にも及んだが、焼失面積と対比してみると、1時間に24万9.650坪、1分間に4.160坪強が焼き払われたことになる。また延焼をうながした最大の原因は、避難者の携行する荷物であった。人々は、家財を荷馬車や大八車に乗せたり背に負うたりして逃げまどい、路上はそれらの人と物によってあふれたが、迫った火は荷物に次々と引火していった。人々は、燃えさかる荷物に逃げ道をふさがれて焼死し、火勢はさらにつのって延焼していったのである。さらに路上の電車に火が移って道路を超えて火の手が伸び、電線が燃え進んで町々を焼く現象も見られた。地震にともなう火災の被害は、横浜市においても甚だしかった。死の全戸数98.900戸中62.608戸が全焼し、圧死者を含む死者は23.335名、重軽傷者10.208名にも及んだ。


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