加藤のメモ的日記
DiaryINDEXpastwill


2009年11月11日(水) 死なない蛸

ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の陰で青ざめたはり天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日差しの中で、いつもガラス窓の槽にたまっていた。

けれども動物は死ななかった。蛸は岩陰にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏返して、内臓の一部を食い始めた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。

かくして蛸は、彼の体全体を食いつくしてしまった、外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも。すべて残る隈なく。完全に。

ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った湖水と、なよなよした海藻とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。

けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水槽の中で。永遠に─おそらくは幾世紀の間を通じて─ある物すごい欠乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた。


『死なない蛸』 荻原朔太郎


加藤  |MAIL