加藤のメモ的日記
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2009年10月28日(水) 正確という病

ヴァレリーは正確と言う激しい病に悩んだ結果、文学も哲学も捨ててしまいます。「正確と言う激しい病」にかかっている人は世の中にも沢山いるはずです。頭がいいといわれる若い人は、「正確という激しい病」にかかることが多いんです。この病にかかると正確でないことを言う人はみんな馬鹿に見えます。

自分が何か言わなければならないときは、あくまで正確なものいいをしようとして、ついに何もいえなくなります。文章を書く時でも、正確にものをいおうとするあまり、留保条件があまりに多すぎる文章を書いて、自分以外の人が読んでもさっぱりわからない文章しか書けなくなりますい。世の中には「正確という激しい病」にかかっていなくては出来ない仕事もありますが、その病にかかっていてはできない仕事もあります。

必要とされる正確さは、時と場合に応じて必然的に決まってきます。時と場合を無視して、必要以上の正確さにこだわるのは、無意味であるばかりか、強迫神経症の一種で、病そのものです。例えば一光年という長さがあります。約10兆キロメートルです。正確にいうと、99兆4600億キロメートルなんですが、これをメートル単位で正確にいうことにこだわる人がいたとしたらバカです。

一年という時間はうるう年、うるう秒があることでわかるように絶対的な厳密性をもっては決められないあるゆらぎを含んだ量です。そのゆらぎの中に、メートル単位の変動があるのだから、1光年をメートル単位で正確にいうことに何の意味もないんです。

僕自身そういう病にかかっていたことがあるからよくわかるんですが、正確という烈しいしい病にかかると、これと同じような実質的には無意味な正確さにこだわるようになって、頭がにっちもさっちもいかなくなってしまいます。

時間を測定する、距離を測定するといった物理的測定ですら尺度のゆらぎを考えたら、絶対的正確さなんてありえないわけです。まして言葉を道具として使う世界では、言葉そのものが内因性の不確実性をもつところから、絶対的正確さなんて求めてえら得ようはずがないんです。これを言語の不確定性原理といってもいいでしょう。

だから、言葉を主たる道具として使う世界と、正確という烈しい病が両立するわけはないんです。ヴァレリーがその病にかかった結果、文学も哲学も捨てようと決心するに至ったのは、当然といえば当然のなりゆきでした。ヴァレリーには、文学も哲学もあまりに曖昧で不純なものと見えました。

さらに正確という烈しい病がこうじた結果、彼は、文学がしばしば題材にするような感情の揺れ動きのようなものを一切捨てようとします。苦痛、懸念、希望、恐怖など、人の心の中だけに起きることは全てとるにたらないものとして捨てようとするわけです。これがヴァレリーが若くして筆を断つことになる一番の理由になっているわけです。


『脳を鍛える』 立花隆


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