加藤のメモ的日記
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2009年07月15日(水) 見知らぬ町にて

19959年の夏、パリ14区のモンパルナスに近いカンパーニュ・プルミエール街の僧院めいた奥まった部屋で、フランス政府から妻に与えられた帰国旅費の小切手を前に、私は腕を組んであれこれ思い惑っていた。ちょうど留学二年目が過ぎようとしていて、手持ちの滞在費はほとんど使い尽くしていた。当時、日本からの外貨持ち出しは厳しく制限されていたから、簡単に送金できる状態ではなかった。その上留学生の滞在期間は二年だったので、妻に与えられる給費もこの帰国旅費が最後であとは無一文だった。

しかし私は二年間パリにいて、小説についてまだ何一つ結論のようなものを見つけることができなかった。予感としてギリシアに行けば何かが発見できそうだという気はした。西欧精神の根源に感覚的に触れることは私には、小説の不可能性を克服する何か不可欠な試みのように思えたのである。といって、手持ちの金は底をついていた。もしギリシアに出かけるなら、帰国旅費に手をつけるほかない。ちょうど二人でギリシア旅行をするギリギリの金額がそこにはあったのだった。

だがそれに手をつければ日本に帰る手段はなくなる。私が迷ったのはそのことだった。当時、帰国旅費を競馬ですってしまい、日本に帰ることもならず、裏町の中華料理屋でアルバイトをしていた留学生崩れの男がいた。もし帰国旅費でギリシアに行けば、この男と同じ運命に陥らないとも限らない。ギリシアに行って果たして小説が書けるようになるかどうか。これは競馬よりもはるかにあてにならない賭けだったのである。

私は日本に手紙を書き、三年目の滞在費を無心した。夏の間その返事を待ったが、梨のつぶてであった。八月の終わりになって、もうこれ以上旅行を延ばすわけにはゆかなかった。妻も私も後は運を天に任せるほかなかった。このギリシア旅行は美について私の考えを根底から覆した。それまで私は、この世があって、そこに美しいものがあると思っていた。しかしパルテノン神殿を仰いだ瞬間、最初にあるのは美なのであって、この世は美の秩序の中に置かれていることを掲示された。

私は激しい美への啓示に放心したようになって、ピレウスから船でブリンディシに着いた。私たちはカラブリアを横切り、メッシーナ海峡を越えてシチリアに向かおうとしていたのだった。たまたまカラブリアに向かう列車の連絡が悪く、タラントでほぼ半日近く待たなければならなかった。夏の終わりの生暖かい霧雨が降っていた日で、私はギリシアでの醒めやらぬ感動と、旅の疲れとで、その小さな港町を夢遊病者のように歩き回った。私の目には、タラントの町は現実の町ではなく、実体のない陰のように見えた。旅の心細い浮遊した感情が温かい霧雨のようにこの影のような町を包んでいた。

パリに戻ると、三年目の滞在費を送金したという便りが日本から届いていた。ギリシアの旅のあいだ感覚の中に溜め込んだ素材をゆっくり消化する時間がこれで確保できたわけで、私は思わず腹の底から大きくため息をついた。そして旅の疲れがどっと噴き出すのを感じた。そのためもあったのか、タラントの霧雨の中にいるような夢うつつの状態が何日も続いた。

私が原稿用紙を広げてほとんど自動筆記のように、タラントの町の映像を物憂い感じで書いていったのは、このときだった。それはある魂の状態をそのままカプセルに入れて保存する作業に似ていた。

小説がどうすれば可能かという問題を考え続けていたのは事実だった、当時、発表する意思はまったくないまま、心の中に生まれた思念の渦にすじ道を与え、より明確な形で自分でも把握するため日記(「パリの手記」河合文庫)を書いていたが、この夢うつつの状態で書いたのは、それとはまったく別もので、小説を書くという意識もほとんどなかった。

一つだけ違っていたのは、パルテノンの啓示のあと、この世があって「書く」のではなく、「書く」ことによってこの世が秩序を持ち始める、と確信できるようになったことだった。小説めいたものを書いていて、結局それが不可能だったのは、この世のほうが「書く」を追い越していたからだった。しかし今は「書く」ことが何かを現成させ、秩序づけているのであった。

そういう意識すらなく、ほとんど肉体的感覚に戻ったレベルで、私は「書く」ことの意味を、パルテノンの啓示に沿って確認していたといえる。あとになって、書き散らしのままになっていたこのテクストを見つけ、そこに私は小説へと目覚めてゆく過程をあらためて認め『見知らぬ町にて』というタイトルを与えて自分の作品に加えることにしたのである。




『微光の道』 辻 邦生


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