加藤のメモ的日記
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ホーリー・スムート法をきっかけにして始まった世界経済のブロック化、そして「天皇制打破」を唱える共産主義の恐怖―昭和初年において、このような状況に対して最も危機感を募らせたのは、満州にいた日本陸軍、すなわち関東軍の将校たちであった。彼らは満州北方で直接ソ連軍と対峙していたし、また満州内部では蒋介石や、張作霖といったシナ軍がいたるところで反日行動を行っていて、日本人入植者(それには多数のコリア人も当然含まれる)の声明や財産が常に危険にさらされていた。 当時の日本政府は、幣原喜重郎外相の方針で、徹底した国際協調外交を行っている。それは「軟弱外交」といわれたほどで、シナ大陸で日本人居留民の生命が危険に陥っても武力を用いず、話し合いで解決しようとしたから、関東軍将校は「日本政府は頼りにならない」と思うようになった。
このような事態を解決するために、関東軍は昭和6年(1931)9月18日、満州事変を起こし、さらに満州国を作ったのである。もちろん日本政府の方針をまったく無視し、出先で勝手なことをやった関東軍将校の行動は暴走としか言いようがない。この暴走は、陸軍の中央でさえ知らないところで起きたのであるから、事はさらに重大である。
このような事態になったのはもとはといえば、首相も内閣も規定されていない明治憲法の欠陥に起因する。この欠陥に気づいた一部の海軍高官は、昭和5年(1930)のロンドン軍縮会議をきっかけに、いわゆる統帥権干犯問題を起こした。
ことの起こりはイギリス、アメリカ、日本の海軍力(軽巡洋艦と駆逐艦)を、およそ10�10�7の比率にすることに反発した勢力が「軍事に関することを政府が決めるのは、天皇が軍隊を統帥する権利を犯すものである」と騒ぎ立てたことであった。この背景にあったのがプロシア式の明治憲法であった。
こうした議論に対してロンドン会議の5年前に四個師団を廃止され、軍縮を心配していた陸軍も深い共感を覚えた。そして彼らも憲法を盾に「政府のいうことを聞く必要はない」としたのである。陸軍首脳は関東軍の暴走に激怒したが、それは元をただせば、国家全体の指揮系統を乱した彼ら自身の責任なのである。
政府の言うことも聞かず、暴走した関東軍の責任は重い。しかし彼らが満州で行ったことがはたして後世言われるようにすべて”侵略行為“であったかといえば、それは違うのではないか。
東京裁判では、満州事変以後の日本の行動はすべて侵略と決め付けられたが、この当時の日本軍の行動は、当時の先進国と呼ばれた国ならどこでもやっていることである。同じことを日本がやれば侵略で、欧米がやれば侵略でないという理屈がどうしてできるのであろう。田母神前空幕長が「わが国が侵略国家だというのは濡れ衣だ」と発言したが彼の発言は正しいのである。ただ政府の統一見解とは違った。
そもそも、当時の満州で日本が軍事行動を起こしたことについては、国際法上何の問題もないのである。といのも第一に日露戦争のポーツマス条約において、日本はロシアから満州国における権益を譲られている。これは当時のシナ政権も承認したことであって、何も不法に満州に入っていったわけではない。しかも満州にいた日本人が満州事変当時、品人によって危険な状況にあったのも動かしがたい事実である。
このころのシナ大陸は軍閥が割拠しまた中国共産党もいて乱れに乱れていた。しかもアメリカの排日政策に勢いを得て、シナ人の間には排日・侮日の気運が高まっておりことあるたびに日本人に危害を加えていたのである。
その一例をあげれば、満州事変が始まる三ヶ月前の昭和六年六月には視察中の現陸軍将校がシナ人に殺されるという事件が起きている。さらにそれから一週間もたたないうちに、今度は満州の万宝山でコリア人(すなわち日本人)の農民とシナ人農民の衝突があって、、コリア人たちが中国官憲の弾圧に遭うという事件があった。
この事件は満州全土の日本人に危機感を与えたし、また『朝戦日報』で誇大に報道されたために、コリア全土で反シナ暴動が起き、平壌では百人以上のシナ人がコリア人に殺された。関東軍が満州事変を起こした目的は、このような危機的状況を解決するために、シナの軍隊や匪賊を満州から排除することにあった。
現地の居留民に危害が及んだ場合、本国政府が彼らの安全を守ろうとするのは 、今日の世界でも当たり前に行われていることである。そして、そのために軍隊が出動するというのは、当時の国際社会では広く認められていたことであった。
北清事変のとき、北京や天津にいた居留民を守るために、イギリスや日本などの連合国が出動したのもその一例である。このときの連合軍は清国軍隊と交戦しているわけだが同時、それを侵略だといった人はいない。現在でもパナマにいるアメリカ人の生命や財産に危険が及べば、アメリカ政府は相当強行なことを行うであろうし、またアメリカの世論は沸騰するはずである。
それと同じように関東軍はコリア人を含む日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのである。これは外交上、とくに非道なことをやったとはいえないのである。しかも関東軍は満州を制圧したまま居座ったわけではない。満州地方の安全を守るため、溥儀を迎えて満州国を作った。これも当時の国際常識から言えば、非常に穏健な方法である。
北清事変においても、義和団と清軍を制圧した連合軍は、事後処理として清国に対して賠償金を課し、また条約を作って二度と同様のことが起きないように約束させた。このときの事後処理と同じことである。もし居留民保護を口実にして、関東軍がそのまま満州占領を続けていれば、それは外交上多くの問題を引き起こしたであろう。火事場泥棒のようなもので弁解の余地はない。侵略といわれても仕方がないことである。
そのいい例が」、満州事変の10年前の1915年にアメリカがやったハイチ侵攻である。この時アメリカは「米国人居留民を守る」という口実でハイチを武力制圧しそのまま19年にわたって占領し続けた。これはどんなに言いつくろったところで侵略であろう。
だが関東軍は19年も居座らなかった。満州事変からわずか一年半後に満州国の建国宣言が行われたのである。これは事後処理としては決して悪くないし、民族自決の観点からいえば、むしろ筋の通った話である。そもそも満州という土地は、本来シナの領土とは言えない。この地方は元々、清国を作った満州族(女真族)の故郷でありシナの本流である漢族が所有権を主張できるようなところではない。
しかも当時の満州国は極端に人口密度が少なかった。英語で言うところの“ノーマンズ・ランド”で日本人のみならず、シナ人やモンゴル人が急速に流入していた。きちんといた政権が存在しないままこのような大量流入が続けば、土地の所有権などを巡って必ずや国際紛争が起こるはずである。
満州に満州族の本来の皇帝である溥儀が統治者となるアイデアは民族自決のみならず、国際紛争を未然に防ぐといううえでも優れたものであった。例えば、アメリカが西部開拓において「もともとこの土地はインディアンのものだから」ということで、インディアンの酋長が治める自治区を作ったかということを考えてみればいい。無論、アメリカは今日に至るまで、そんなことを一度たりともやっていない。これに対して、日本軍は満州に満州族の自治区を作ろうとした。どちらのほうが“文明的”であろうか。
たしかに満州国は、日本の傀儡国家であった。だが、外交権や軍事権を日本が預かったということを非難するのであれば、同様に大英帝国も非難されなければならない。大英帝国はオーストラリアやニュージーランドの宗主国ということで、これらの国々の外交権や軍事権を長い間預かっていたではないか。
さらに言えば、戦後のアメリカはパナマのノリエガ将軍を武力で追い出し、新米的な指導者を据えた。また、ハイチに侵攻してセドラ司令官を追放し、アリスティド大統領を復帰させている。大義名分は「民主主義の回復」であっても、これは親米的な傀儡政権を作っていることにほかならない。しかも、溥儀は無理やりに皇位に附けられたのではない。彼は自らの意思で満州国皇帝になったのであり、それを傀儡国家呼ばわりにするのは溥儀の意思をまったく無視している。
渡部昇一『渡部昇一の昭和史』
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