加藤のメモ的日記
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2008年12月08日(月) 宇宙進出 見当識

人間の宇宙進出というのは、人間の宿命みたいなものだと考えたほうがいいと。それはなぜかというと、人間というのは目の前に何か新しいものがあるときに、それは一体何のかを知りたいという、非常に激しい心理的な欲求を持つ動物だからなんです。そもそもサルが人から進化してきた過程を考えてみると、サルというのははじめはみんなジャングルに住んでいた。ジャングルというのは自然が豊かで食べ物も豊富だし、非常に住みよい環境なんです。

ところが、我々の先祖であるヒトは、ジャングルからサバンナに進出して行った。サバンナというのは非常に自然が貧しい環境ですよね。広大ではあるけれども、そこへ進出することによって得られる利益というのはほとんどない世界なんです。サルというのは植物食、特に果実食ですから生存に適した環境はジャングルに決まっているんです。

でも目の前に広がるサバンナを見て、そこは劣悪な環境で住みやすくはない環境に決まっているんだけれども、あっちに何があるんだか知りたい、とにかく行ってみたい、そう考えた一群のサルがいたわけです。そのサルたちがサバンナに進出していってそこで初めて、サルからヒトへ進化することができたわけです。ジャングルにとどまっていたサルは、サルのままにとどまったわけです。

つまりわれわれ人類は、目の前の利益というのは何もないかもしれないけれども、とにかくあっちがどうなっているのか知りたい、行ってみたい、そういう基本的な欲求にしたがってサバンナに進出して行ったサルの子孫なわけです。だから今、目の前に宇宙という未知の世界が広がっていて、しかもそこに行ける手段があるというときに、経済的利益を持ち出してあっちへ行ったほうが損か得かを見極めて得なら行くけど、損なら行かないなどというのは、ジャングルにとどまったサルと同じ理論だと、いうことを僕は言ったわけです。

それと同じことで、人間がこれまで生み出してきたすべての文明というのは一見、実用的な知的欲求、つまり経済的な合理性を持つ知的欲求の所産のように見えるけれども、じつはそれは表面的なもので、我々人類をもっと深いところで突き動かしてきたのは、より原初的な純粋知的欲求、とにかくもっと知りたい、もっともっと知りたいという、根源的な欲求だったんだろうと思います。

知り得たことをどう活用すればどういう利益があがるかという実利用は後から出てくる話で、いつでも先行するのは実利そっちのけの純粋知的欲求のわけです。
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もう一つ知の世界において人間が他の動物と最も違うのは、内的な意識世界がものすごく複雑で、そこに成立している知の世界が量においても質においても巨大であるということです。言語を獲得したことがその理由の一つですけども、その複雑な心の中の世界、自分の内的世界を知りたいという欲求が非常に強くある。人間とは一体どういうものなのか、私とはどういうものなのか、あるいは人間関係において人間一般とはどういうものなのか、他人とはどういうものなのか、そういう知的欲求もまた、ものすごく大きいわけです。

これは『生、死、神秘体験』という本の前書きに書いたんですけれども、医学の世界には「見当識」という言葉があります。病院で患者の意識レベルがどんどん低くなっていったときに、それがどのぐらいのレベルにあるかを判断するために、まず見当識の調査をやるんですね。これは非常に単純な質問で調べられるんです。患者さんに「ここはどこですか」と聞くそれから「あなたは誰ですか」「今はいつですか」と聞く。そういう三つの質問をするんです。これが見当識の調査なんです。

「ここはどこ」というのは空間的に自分を定位づけるといことですね。「あなたは誰」というのは、六十億の人間が住んでいる人間社会の関係の中で、自分という人間を定位づけるということです。それから「今はいつ」というのは、時間軸の中で今自分が生きている時を定位づけるということです。この三つの定位づけをきちんとできる人が、正常な意識を持った人間とされるわけです。

この質問に答えられずに「ここはどこ」と聞いてもそこがどこだか答えられない人は、意識のレベルがかなり低下していると判断されるわけです。病院の検査では「ここはどこ」と聞いても「○○病院」と答えればいいことになっています。また、「あなたは誰」という質問には名前をいえばいいし、「今はいつ」という質問には日時をいえばいい。

けれどそれが、本質的な意味でこれらの質問の答えになっているかというと、まったくそうではない。「ここはどこ」という問いをどんどん問いつめていったら、この宇宙というのはどういう世界なのかということを考えざるをえない。また、「あなたは誰」という問いにも、本質的に答えようと思ったら無限の説明が必要になるわけです。「今はいつ」というのも同じことです。そもそも時間というものは、人間にはよくわかっていないわけですね。

実はこの三つの見当識に対する答えというのは、人類が人類史の総体をかけて、何とか探り出そうとしてきた目標そのものなんですね。本質的な意味では、その答えはいまだ得られていない。得られないからこそ問い続けて、どんどん知的欲求を膨らませていく結果になったわけです。この三つの質問、本当に深いレベルで答えようとしてきたことが、我々のすべてのサイエンス、文化、文明というものをつくってきた原動力になったのではないかと思います。

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本というのははじめから終わりまで読むべき本と、必要なところだけを拾い出して読めばいい本とある。仕事の資料というのは完全に後者だから、要はいかに効率的に自分に必要な部分を見つけるかです。目次、索引を利用するのはもちろん、一秒に一回のペースでページをめくっていくだけで、不思議に必要なところが目にとまるんですよ。

人間の脳の働きにはそういう能力があるっていうことは、脳のことを勉強していく中でわかってきた。つまり人間の脳は、相当部分が意識化されないでもちゃんと働いているんです。たとえば、耳に入らない程度の小さな声でも、特別な単語があるとパッとその音に対して関心が向くでしょう。実は耳は常に聞いているんだけど、そこに意識が照射されていないだけなんです。しかし、必要があると脳が信号を発して意識がそちらに向けられる。

本の場合も、普通は「読」むといえば意識を集中して読むことだけど、そうじゃなくてこうやってページをめくっていても、自分に関心があることがあれば、目がパッとそれを捉えることができる。つまり、脳には自動的なモニター作用みたいなものがあるわけです。それを利用すれば一秒一ページでも読める。最近速読術の本を買って読んだら似たようなことが書いてあった。もちろん、必要な部分に目がとまったら、そこは意識を集中して読むんですよ。それと僕は読む時に徹底的に本を汚すんです。ページを折るとか、鉛筆で書き込みをするとか、付箋をつけるときも、色を変えたりとか。



『僕はこんな本を読んできた』立花 隆


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