| 2008年07月06日(日) |
「教科日本語」の問題 |
子の年齢:4歳6ヶ月
二児の母を目指すのはしばらくお休みにしたので、とりあえず、若作りな母を目指すことにし、まずは伸びきった髪を切ることにした。 どんな髪型にしようかな〜、ヘアカタログでも買って〜、とちんたら書店に行くと、目に留まったのは、近頃流行の小学生の親の教育雑誌みたいなヤツ。 ダイヤモンド社とか日経新聞社とか、ビジネス書がメインの出版社が最近こぞって刊行している、子供の教育に関する季刊誌だ。中身もお受験の話ばかりではなく、考える力や生きる力を総合的につけるにはどうすればよいか、など迷える親のための総合情報誌といった感じだ。 だって一時期「キレる子」の報道が多くて、みんな「ウチの子は大丈夫かな?」って思ったもんね。 ってなわけで、つい、1冊購入してしまう。 記事の中で目を引いたのは、世田谷区の教育特別区「日本語」。 私自身国語の教員免許を持っているので、教育特別区「日本語」と言われると興味がある。 早速教科書を取り寄せようとWebで検索すると、結構賛否両論だと言うことに気がついた。
だいたいが、指導要領にのっとって、「国語」という教科をつぶせない以上、「日本語」との住み分けはどうするのか、といったあたりが難しいのだそうで、ごもっともな話である。 探ればもっと問題があるのかもしれないが、担任の先生の力量にもかかってくることで、担任の先生を指名することもできないのだからどうにもならない。
ただ、殆どの小学校が英語の早期教育に走るご時世に、敢えて「日本語」という姿勢には共感できるのだけれども。 グローバル化の時代だからこそ、日本人としてのアイデンティティがより重要なのだ。英語はコミュニケーションツールの1つでしかない。
さて、「教科日本語」の問題はアイデンティティに力を入れすぎて、コミニュケーションを軽視してしまったところに存在意義を問われているんではないかな〜と思う。「総合コミニュケーション」っていう教科にすれば、ディベートとか、プレゼンも上手になっていいのにね?
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