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2005年09月20日(火) ■ |
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二回目の鑑賞「エレニの旅」は90点 |
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今年初めて二回目の鑑賞である。 写真は冒頭のシーン。冒頭から、魅せる。彼らはロシア・オデッサからの難民だ。ひとつの共同体の今日までの顛末が「台詞」で語られる。後ろに河、そして前にも河が流れている。過去から未来へ。現世から死の世界へ。時代の暴力の塊として、この河はさまざまに意味を変える。アンゲロプロスの映画以外ではそこまでの象徴性は持つことはできない。しかし、彼の映画にいたっては、ひとつのシーンの美しさがそれを可能にしている。しかも、もっとも大切なドラマはシーンの中では語られない。ドラマは台詞によって語られるか、あるいは背景で説明されるだけか。この物語にドラマを入れようとすると当然入れなければいけないシーンはいくつかある。難民が国境を越えたところ。15歳のアレクシスが13歳のエレニとはじめて結ばれたところ、結婚式場でエレニがアレクシスとともに逃げようと決意するところ。等々……。それを入れないことでどういうことが起きるのか。一人の女性が運命と戦い傷つき倒れるドラマを見るのではなく、一つの叙事詩を見るのである。そのとき、河は河ではなく、雨は雨でなく、白い布も、汽車も、洪水も、双子の子供も、共同体の長である父親も、人民戦線も、三回に渡る血の色(羊の血、白い布につく血痕、別れの赤い糸)も、エレニという一人の女性も、さまざまな意味を持って何度も何度も歌い継がれる存在に変化してしまう。それは決して時代を描くということではない。自分にとっての「何か」を映像として自分の中に取り込むということだ。
ひとつの世界観を作ってしまった「ロード・オブ・ザ・リング」というような作り方もあれば、このような形で世界をつくってしまうこともできるのだ。「ユリシーズの瞳」のときはまだわたしのほうの準備が足りなかった。「永遠と一日」のときは時代が後方に追いやられていためか、その広がりがよくわからなかった。今回初めて彼の作品で衝撃を受けた。
一回目の鑑賞のとき一つ私は勘違いをしていた。訂正してお詫びします。「霧はまったくでない」のではない。霧はいつも出ていた。ニューオデッサで、白布の丘で、アメリカにつながっているという海で。息子が死んだ海で。しかし、今回は目の前がまったく見えなくなるような霧が出ていなかっただけなのだ。その代わり雨が降る。涙のように。そして霧の日はむしろこの時代にあっては「晴れ間の日」だったのである。 Last updated 2005.07.27 01:20:54
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