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2005年09月19日(月) ■ |
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「エレニの旅」は90点 |
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監督 : テオ・アンゲロプロス
出演 : アレクサンドラ・アイディニ ニコス・プルサニディス ヨルゴス・アルメニス ヴァシリス・コロヴォス エヴァ・コタマニドゥ ミハリス・ヤナトス トゥーラ・スタトプロウ
アンゲロプロスの映画では約束事であった「霧」は全く出てこない。その代わり、執拗に「雨」が降り注ぐ。あるいは雨の結果である「川」が湖のように村にそして戦場に横たわっている。霧はいつも未来を不透明にするが、物理的な力はない。しかし、雨は違う。それは時には洪水になりひとつの村を水没させたりするのである。それは運命?それは時代?それは物理的な暴力である。圧倒的な力が歴史の中にうずもれる個人の一人ひとりに襲い掛かる。ギリシャの1919年からおそらく1950年頃まで。難民、戦争、人民戦線、内戦、息つく暇もないほど、時代の雨に翻弄される一人の女性を描く。しかし女性に雨雲の全体は見えない。だからわれわれに見せるのは目の前の雨粒だけだ。
雨の間には晴間もあるだろう。私たちの晴れ間とは違い恐ろしく短いように思えるが。逃げだした二人を温かく迎える、ジプシーに似たフリーの音楽仲間、そして主旋律になるアレクシスの作曲した悲しく優しい調べ、晴間になるとすぐに出てくる目の醒めるような白いシーツの群れ(最後は血に染まる)、この映画では音楽だけが、晴間だった。
何回か彼の作品を観て、今回ほどワンシーンワンカットの妙味を堪能したことはない。二つの村を忠実に再現させたのはCGを使いたくなかった監督のエゴからではない。果てしない平原、やがて一つ一つをレンガで積み上げた質素な家からなる10数件ばかしの小さな村の全体像が写り、馬や羊などの生活の風景が写り、村の全体をなめるように写したあと川から着いたばかしの女性にズームしていくと、力なく死んだようなか弱い少女が抱き着替えられて村一番大きい屋敷に運ばれていく。全体から個人へそして全体へとカメラつまり監督の視線は常にそのように移動していく。それはまるでシャガールの絵の様だ。恋人を正面に大きく描くけど、常に背景には彼が住んでいた村や人々の世界が描かれている。駅のすぐ傍の工場地帯の村ではレンガ積みの家さえ珍しい、雨のもれるトタン屋根に木造の家、それらの世界が個人の悲しみにやがてシフトしていく。CGなどでは表わせる世界ではない。
ひとつのシーンは突然切り替わる。ギリシャの歴史に詳しかったら、ギリシャの古典に詳しかったら、もっとこの作品の「詩篇」の意味が分かったのかもしれないが、しかし、それは次の楽しみに取っておけということなのだろう。 updated 2005.07.10
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