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2005年07月13日(水) ■ |
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総社西の弥生遺跡を探す |
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『総社西の弥生遺跡を探す』
県立吉備路郷土館発行の『吉備路風土記の丘ガイド』を頼りに、「立坂弥生墳丘墓」を探しに行った。倉敷から高梁川沿いに総社に行くと、やがて総社大橋にぶつかる。そこを西に曲がって橋をわたり、ずーとまっすぐ行くと、新本郵便局が右側、一里塚の名残のような大木が左側に見えてくる。そこを左に曲がるとやがて左側に協同組合ウイングバレイ(旧水島機械金属工業団地)が見えてくる。『ガイド』には無かったけど、その工業団地の入り口に遺跡公園があった。
その説明板を読んでみると、この工業団地には集落跡3ヶ所、古墳51基、製鉄遺跡5ヶ所あったらしい。古墳は横穴式。6C後半から100年くらいの間に作られたもの。3基からは鉄カスが出土。製鉄遺跡も同時期。60基の製鉄炉と16基の炭窯が確認されている。このひとつの村くらいの大きさの丘の上は古代一大製鉄工業団地だったみたいだ。時代は飛鳥時代。吉備の反乱が鎮圧されて大和政権に組み込まれた頃だろうか。
さてこの公園では沖田奥6号墳(7C前)が移築されており、高床式倉庫、炭窯、製鉄炉が復元されている。炭窯はなかなか精巧に作られている。空気穴と掻きだし穴が分けられており、この穴でまずは『白炭』を作るのである。そして製鉄炉で鉄鉱石をふいごで送風して溶かして作るのであるが、ほとんど「ちゃぶだい」位の大きさしかなかった。鉄カスがそばにあった。このとき初めて気がつく。そうかここが板井砂奥遺跡か。日本で最古級の製鉄遺跡である。千引きカナクロ遺跡はゴルフ場に、そしてここは工業団地として破壊されつくされているようだ。万が一残されていないか、工業団地を廻ってみたが、それらしきあとは全然無かった。おそろしい。古代の製鉄遺跡の重要性に気がつかなかったいうのか。歴史を動かしている要素のひとつの雄が経済だとしたら、まさにこの時代のその要、しかも現在分かっている最古級の資料だというのに。報告書だけが資料ではない。ここから見える景色、あるいは空気といったものは、壊してしまったあとではもう復元できない。鳥取や、島根で出来たこと、奈良では当然の如くして来たことがどうして岡山で出来ないのか。ああ!
気を取り直して立坂弥生墳丘墓を探しに行く。地図の上では公園から100Mと離れていない鉄加工工場のある辺りではある。工員に「弥生の墓の場所は知りませんか」と聞いてみる。全然知らない。よっぽど目立つものでない限り、たいていの住民は家の近くに遺跡が在ることを知らない。みんな古墳とは山のように大きいと思っている。しかしちょっとした盛り上がりがほとんどの古墳であるし、弥生の墓なんて盛り上がりさえないものが多い。わたしは地図で見当をつけて小山に登ってみる。墓になっている。いつの時代か知らないが巨大な仏塔もある。しかも、地蔵巡りの場所なのか十一番かそれ以降のお地蔵さんが2塔あった。ここが『聖なる場所』であることは明らかだ。ここに違いない。しかし、墳丘墓らしきものは見当たらなかった。調査は終えているはずなので、立て看ぐらい立ててくれれば良いものを。しかし、ぐるっと廻ってみて思いつく。この小山の中心を県道が通っている。この遺跡はもしかしたら道を作る時に発見されたものなのかもしない。そうだとするともう跡形も残ってはいない。しかし、ここが6Cの製鉄工場地帯だったとすると、それより300年も前に栄えていたこの場所というものはどういう意味があったのだろうか。この弥生遺跡はそれだけの謎をもって存在していたことになる。残念だ。
そのあと「ガイド」にある一倉遺跡、長砂2号墳も探してみたが、分からなかった。けれども新本川をはさんで弥生から奈良時代にかけて、ここがひとつの日本の先進地域だったという感触を持ちながら今日の『調査』は終えたのでした。
さて、製鉄遺跡年代を6C〜7Cと書いた。説明板にそう書いていたからだが、後日気になったので調べてみた。2003年11月28日発行の「たたら製鉄」(吉備人出版光永真一著)によると出土土器から7C〜8Cと書いていた。明らかにこちらが最新情報なので、こちらを信用したい。よって時代は奈良時代。吉備が大和政権に組込まれた後の操業開始だ。しかし規模は今の所吉備最大。重要性は変わらない。今、最古はやはり鬼の城麓の千引カナクロ谷遺跡(6C前半)らしい。 この本は製鉄遺跡の本としては分かりやすいが、私はあの復元遺跡をみてやっと古代の製鉄のイメージがつくれた。今日の一番上の写真にあるように製鉄炉とはこんなにも小さいのである。この下の写真は炭窯である。
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