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2005年07月12日(火) ■ |
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見事な観光資源、高松北の遺跡を歩く |
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7月11日、初めてセミの声を聞いた気がしまいす。 映画ネタも尽きてきましたので、遺跡めぐりの話をちょびっとして、 読書ノートに移ります。
「見事な観光資源、高松北の遺跡を歩く」
4月10日、雨の予報を吹き飛ばす晴れ男が誰かいたのか、終始ぽかぽか天気の日曜日、「古代吉備を語る会」主催の「高松地区北部の遺跡群」の見学会に行きました。
数日前から咲き始めたさくらはすでに満開で、高松城址の桜は早々と桜吹雪を演出、野道にはタンポポ、踊子草、ホトケノザが黄色、紫、ピンクを演出し、参加者のある女性はせっせとつくしを採取し、ある女性は湿地で「イグサの原種」を摘んで小さな籠を手早く作っていました。気持ちのいい春の日、高松地区北部は賀陽(加夜)氏の本塁地の一部だったそうで、3C〜5Cの古代吉備の姿に想いを馳せた一日になりました。
最初に行ったのは生石(おいし)神社遺跡。足守と高松地区の境にある山の尾根の先にある。古代からこの場所が非常に重要な場所だったのだろう、弥生墳丘墓があったという。特殊壺の破片が採取されているが、何の型かは不明。おそらく弥生2C〜3Cの後期だろう、とのこと。10m規模の墳丘墓。はたして鉄器との関係は?この遺跡の下には足守川が流れている。
次に行ったのは、大崎廃寺跡。基壇の部分が小さな円墳のように盛り上がっています。ここからは飛鳥様式の瓦が出土したということで、飛鳥寺と同じ7Cの寺、つまり日本で最も早い時期の寺がここに存在したということになります。それだけでものすごいビッグ・ニュース。どうしてきちんと発掘しないのか不思議でならない。
その次は山道をより分け、大崎古墳群を見に行きました。古墳時代後期の横穴式石室がたくさん存在しているところです。きれいな石室がたくさんありました。大小あわせて43の古墳、全長25m以上の規模は9基、古墳時代全般にわたり、安定した地域集団(賀陽氏?)が存在していたという証拠でしょう。しかもそれがそのまま寺院造営にも繋がっていたとも想像できます。3C〜7Cにわたりこの地域では政権交代はなかったのかもしれません。
高松城址で昼食。花見今が盛りのこの時期、人出は多すぎず、少なすぎず、ここは案外いい花見スポットなのかもしれません。
次に行ったのは小盛山古墳。全長10m高さ14m3段墳丘の作り出しつき円墳。つまり「ホタテ貝型古墳」です。この大きさのホタテ貝型古墳は全国でも10本の指に数えることが出来るといいます。4C〜5Cの造営。丘陵を利用したのではなく、土を盛ったのだと見られています。作り出し部分がきれいに残っており、この方が前方後円墳に変わっていくのだなあ、と実感できました。未発掘。
次に行ったのは、小盛山から歩いて南に10分くらい行った所にある佐古田堂山古墳。全長150m高さ9mの中規模の前方後円墳です。登ってみると高松地区全域が見渡せてとても素晴らしい眺望です。日本第四位の造山古墳と同時期の築造と見られるだけに、この大きさは注目すべきだと思います。すわ、高松地区が造山古墳造営の主体かと、聞いてみたのですが、出宮さんはどうも違う見解を持っているみたいです。
そのあとは秀吉の高松城水攻め跡、蛙ゲ鼻築堤跡に行って解散。
この地区を歩いてみて思ったことは、もしこの重要な遺跡群をきちんと発掘し、学問的な重要性を全国に発信し、同時に遊歩道も作って観光資源として活かしたなら、弥生から古墳、飛鳥、戦国時代に至るまで遺跡群がひとつの地域にまとまり見事な「○○の里」的なものになるはずである。なぜ岡山県、岡山市はそういう発想がないのか。そういうことにお金を使わないのか。残念。
参加者のどなたかが言っていました。「県知事が悪いんじゃない。住民が悪いんじゃ。遺跡なにそれ?という意識なんじゃから。結局岡山県は豊か過ぎるんじゃ。観光で生きていかなくても、果物は豊富じゃし、災害はないし。」確かに岡山県では鳥取の妻木晩田遺跡のような遺跡保存運動は近年なかった。しかしそれは教育がそっちに向いていないからでしょう。鳥取の場合は片山知事の個人的なリーダーシップが強いという側面もあるでしょう。要はやはり、県の姿勢が文化面が豊かになるような方向に向くかどうかにあると思う。「吉備の地域は飛鳥地域に負けないわが国の曙の時期の最重要地域だった」そういうことを県民が知るというのは、観光云々はおいといて、お金ではとても買えないすばらしい財産になると私は思います。 (05.05.10記入)
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