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2005年04月12日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(12)

私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、
学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、
説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。
つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。

私は何度も書き直しを命じられたはずだ。
しかしすでにインタビューは終わっている。
新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、
文章的な誤りは直しが何回も出たが、
文化部のOKは出た。
しかし、編集会議でのOKが必要である。

編集長や次期編集長はやはり根本的なところを突いてきた。
「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない。」
書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。
しかし、それを地の文で説明しようとすると、
半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、
私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、
結局、強行採決をした政府に対し、
「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、
安保反対のデモの波が広がった、
というような「歴史発掘」になったのである。

私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。
しかし「本質」はそれだけではなかったろう、
安保自体が持つ危険性に対して、
戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、
それは歴史的な瞬間だったのではある。

事実でもって本質を描く、それは
取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、
描き得ないものなのである。
私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。

この場合、「支配する側」に立つのか、
「支配される側」に立つのか、
それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。
もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。
そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、
新入生には「難しい例」ではあったが、
自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、
後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。
しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。
決意、によってなされるのである。

以下次号。