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2005年04月11日(月) ■ |
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本多勝一「事実とは何か」について(11) |
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「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」 などというような口答えはしなかった。 私は素直な新入生だった。
私は県庁に赴いた。 そのころ、○○県の県庁はまだ全体が木造の平屋、ぼろくて広い建物 反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。 一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、 この県はなぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。、 歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。
複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、 うけつけでB氏を呼んでもらったのであるが、 電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、 今忙しいので後で連絡するといって、 私たちの連絡先を聞いてあってくれなかった。 (今から考えると当然といえば当然であろう。) 私はすごすごと戻っていったのであるが、 やがて会ってもいいという連絡が来る。 もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと 聞いたのかかも知れない。
20年前の学生は当然ながら、スーツを着た中年のおじさんであった。 私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。 中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、 今ではほとんど覚えていない。 ただ、なぜ60年安保闘争を始めたのかと聞いたとき、 次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、 生涯忘れることの出来ないものでもあった。 「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。 けれどもあの国会の強行採決を知って、 このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。 ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、 デモもやっていったんだと思う。」 突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。
それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。 そしてそれは当時としてはすでに(そして今も) 失われつつある言葉だったろう。 私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。
全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、 そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、 聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。 私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問も してみるべきだったかもしれない。 「あの当時のことを思い出してみて、 現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」 過去の歴史から現代を照射する、 そういう試みも面白かったかもしれない。
しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。 次は私の「初めての記事」である。
以下次号。
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