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2005年04月08日(金) ■ |
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本多勝一「事実とは何か」について(8) |
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大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。
教養学部、日本史の授業だったと思う。 「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。 支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」
ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。
非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。 大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。
そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。
しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。
以下次号。
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