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2005年04月07日(木)
本多勝一「事実とは何か」について(7)

「真実」という言葉で思い出すもの。
いまや、だいたいのあらすじも、作者の名前すら覚えていないのだが、その小説の冒頭に掲げられたこの詩だけは、いつでも諳んじる事が出来る。

「巡礼」北原白秋作
真実一路の道なれど
真実
鈴をふり思い出す

小説「真実一路」である。

私の人生において、何度となくこの詩がふと沸いて出てきた。
あるときは共感を持って。あるときは疑問を持って。
共感は「鈴をふり思い出す」点で。
疑問は「巡礼」がなぜ「真実一路の道」なのか。
この場合の巡礼は言うまでもなく、四国48寺を巡り、自分の足で歩きとおしているお遍路さんを言うのであろう。(車で寺参りをする観光客のことではない)この巡礼の場合、たとえ毎日歩きとおしても、たいていは半年から一年はかかるという。彼らの道の何が真実一路なのか、実は私はずっと分からないでいた。小説の中身も、巡礼とはまるで関係のない、悩み通しの「成長物語」であり、私の好きな「次郎物語」や「しろばんば」みたいな成長小説のすっきりしたところがなく、私は好きになれなかった。

ただいえるのはこの場合の「真実」は「事実」でもなければ、「真理」でもない。あえて言うとすれば、「誠実」ということであろうか。

「真実」という言葉は「情緒に訴えるもの」というのは、確かにいえていると思う。論文などでは使うべきではないし、ルポルタージュでは確かに使うべき言葉ではない。肝に銘じておこう。