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2005年04月04日(月) ■ |
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本多勝一「事実とは何か」について(4) |
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なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。
私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。
私はどういう立場に立てばいいのか。 そのことが私の前に立ちはだかっていました。
その前に新聞会とは自治組織だったといいました。このあたりの事情を説明するのは大変なのですが、これからの展開に必要みたいなので説明します。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。
そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。
新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが白ヘルたちの影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。
今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。
これを書いて初めて分かったのですが、 私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら
最初の日にすでに「選択」していたみたいです。
本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。明日以降検証してみたいと思います。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。
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