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2005年04月03日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(3)

新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう20年以上前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。そのことをまず断っておきます。)
大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。私は「新歓説明会」のあと、数人の新入生とともにそこに連れて行かれました。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていた。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。

「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」

その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。

ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのはないんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。