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2004年09月13日(月) ■ |
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04.08.07三次への旅 |
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04.08.07三次への旅 今回は土日がポッカリ空いたので、青春18きっぷを使って、のんびり汽車の旅をする事にしました。伯備線から芸備線に乗り換え、一日目は三次で半日を過ごして広島泊まり。二日目は広島市街をぶらぶら。ここでは二日目の事は省略して、三次の博物館と遺跡見学についてレポートします。
この日の朝は早かった。午前6:08倉敷発伯備線に乗るためです。この電車を逃すと次ぎの連絡電車は五時間後になります。ローカル線の哀しさですね。しかし、ローカル線の旅は素晴らしい。特に新見から比婆山までの景色が素晴らしい。緑のトンネル。葉を擦りながら、時々超スロー運転になりながら、カンゾウが群生する渓谷を電車が滑っていく。比婆から西は突然乗客が増える。大きい意味で三次盆地の中に入ったのでしょう。もうそこらは新見にはひけをとらぬ大きな町です。
10:37に三次駅に着きました。駅で観光マップを貰うと、市街地の中に(市立)歴史民俗資料館がある。11時にそこに着くと考古学資料がまったくない。小さな無料の資料館でした。「おかしい…。」館長らしき人が丁寧に相談に乗ってくれました。私は「市立」と「県立」を間違えたのです。県立歴史民俗資料館は市立と駅を隔てたまったく反対側、みよし風土記の丘にありました。ずいぶん遠い。バスの連絡も悪い。館長に勧められて駅前のレンタサイクルでいく事にしました。半日1000円。高い。まずはバスがとおっていない駅の北側の小高い山にある弥生の群集墓、花園遺跡にいきました。わずかな台地上に方形周公墓が何十となく固まっている。明かに庶民のための墓です。弥生時代でこういう墓を見たのは初めて。台地からは三次市街地が一望に見える位置でした。
ここまではレンタサイクルにして正解だと館長に感謝していたのです。その後彼を恨むようになるのに10分とかかりませんでした。いや、もちろん私の逆恨みです。風土記の丘までの道のなんと長い事、そしてアップダウン。私はすぐにへたばっていました。いや正直に言うと死にそうでした。コンナニ長い間自転車を漕いだのはいつ以来だったろうか。高校のときはいつも5キロくらいの通学距離を15分くらいで着いていた。妹の友達からは「8マンみたいね」といわれたのは今は昔。この約7キロの距離を一時間ほどかけて、死にそうになってやっと着く。運動不足を痛感しました。閑話休題(^^;)。
県立歴史民俗資料館は弥生時代から古墳時代にかけての考古学資料が非常に充実しているいい博物館でした。弥生時代は吉備との関係をきちんと展示している。(あとでわかった事ですが、ここの学芸員は岡山県玉野市の出身でもとの専門は弥生時代だったらしい。)私は四隅突出墓が発掘されたという矢谷墳丘墓と陣山遺跡への行き方を尋ねたところ、おもいもかけず、前述の学芸員の方が説明に来られたので、いい機会と思い従来の疑問をぶつけたのです。「西谷墳丘墓では吉備の特殊器台が出ていますが、あれは完成品を運んだんですか。」「そうですね」「ではどのルートをとおっていったのでしょう。私は福山から川をとおって三次まで来て、そこからまた山陰まで川で運んだと思うのですが。」「それは少し勘違いがあると思います。地図上で川が三次盆地まで通っているからといって全て川で運んだというのは間違いです。川は所々急なところがあって、到底三次まで来る事が出来ないのです。」意外であった。私は今はあんまり水が流れていない奈良盆地の大和川が、難波と飛鳥を結ぶ幹線道路の役割を果たしていたと知っていたので、今は水量がなくても弥生時代は全ての川が道路の役割を果たしていたと思っていたのだ。しかし考えてみると、山の中の川はあまりにも岩がごつごつしていて、到底舟で行く道にはならなかったのかもしれない。もちろん壊れやすい特殊器台を運ぶなんて論外だったろう。「二つのルートがあると思います。一つは福山から大きい川はたどってしばらく北上すると、比較的平坦な未地があるところがあります。そこから西へ向かい、御調郡から北に向かういい道があるのです。そこから三次に来てしばらく川沿いに降りて、川幅が大きくなったところで川で下ったのでしょう。もう一つは高梁川を登って新見まで行きます。そこから今の芸備線沿いにわりと平坦な道があるのです。」なるほど確かに芸備線から見える川は時々岩によって舟で行くには分断しているが、川沿いに行くと人が通れる道になりそうだ。しかし問題がある。そもそも私が川で持っていっただろうと発想したのは、あんなに大きな重い土器をはたして壊さずに手で運ぶ事が出来ただろうか、ということであった。しかも一つや二つではない。西谷墳丘墓では(まちがっていたらごめん)30以上は特殊器台が出土したはずである。「おそらくなんらかの箱に土器をいれごろごろしないように藁か何かで詰め物をして、その下に棒を通し、四人がかりで運んだのではないでしょうか。」そうなると特殊器台を運ぶだけで百数十人規模の大行列になる。いったいどのくらいの規模の行列になったのか計り知れない。西谷墳丘墓の葬式というのはそれはそれはものすごいイベントであったという事になるではないか。「その通りだと思います。」広島という土地をおそらく自ら歩いて把握している人の話なので私は納得した。そしてあらためて、出雲と吉備との強い繋がりに思いを馳せました。
しかしいずれにせよ三次盆地は吉備と出雲を結ぶ重要な地域だったはず。最近発掘されたばかりの陣山遺跡(弥生時代中期BC300〜0)には最初期の四隅突出墓が出ています。ここからは特殊器台が出ていません。そして西谷墳丘墓の時代になる。その後矢谷墳丘墓(弥生時代後期)は四隅突出簿と特殊器台の向見型が出ています。最初の頃四隅突出墓の祭祀をする一族は三次盆地に住み、その後川を下り出雲盆地で青銅器文化を駆逐して鉄の文化を築く。それと同時に三次を西限、北限にして吉備勢力がやってくる。おそらくそこで吉備と出雲は同盟関係になったのでしょう。陣山遺跡には行く事が出来なかったが、矢谷と非常に大きな特殊器台は博物館で見て、帰りにも遺跡に寄る事が出来ました。西谷墳丘墓よりも大きい規模の四隅突出墓で、そこからは古墳時代の遺跡が集中している三次風土記の丘は見えないが、三次盆地は一望に見えます。弥生から古墳時代に代わるその変わり目、三次盆地の首長がどこを見ていたのか分かる気がしました。
ところで花嵐さん、四隅突出墓が「カナ床」を意味しているのだとしたら一つ疑問があります。陣山遺跡は少なくとも紀元前の遺跡です。はたしてその頃、鉄の生産をしていたのでしょうか。
ここは一度は来るべき地域だと思います。来年のの吉備を語る会バスの旅は三次をテーマにしたらどうでしょうか。行きたくて行けなかった陣山遺跡にぜひ行きたい。
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