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| 2004年08月09日(月) ■ |
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| 「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 |
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「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 清水幾太郎は私がその名を覚えた頃にはもうすでに充分「平和論者から転向した核武装を唱える右派論者」という評判を取っていた。当時日本思想史を学んでいた私は、思想というものは周りがどうであろうと本人の中で一貫した原理が無いとそれは「ニセ思想」であるという認識に至っていたが、清水幾太郎はその反面教師として興味を持っていた。そして彼についての評論を読んでみて、私が思ったのは「結局この人はいいかげんな人だった」という印象だけであった。そう思ってしまったのは彼についての評論が戦後の活躍から始められていて、生い立ちから述べられていなかったからなのだ。
今回のこの本格的な評伝を読んで私はやっと彼の中に「一貫した思考のスタイル」というべきものを発見した。戦前に日本橋から深川の「スラム街」に引っ越した清水はスラム脱出のために「インテリ」に憧れる一方、「高い地点」から抽象的な概念を説く「インテリ」に反発する。「こうしたアンビバレントな姿勢は、清水の中で〈西洋的な知識人〉と〈日本の庶民大衆〉という対立図式をつくり、やがて彼のナショナリズムの根底をなしてゆく」。自分は支配者層の立場に居なかった、という認識が戦中の左から右に移った事に対する無反省を生み、「論壇」で有名になることを好み熱中しやすい性格が、その後の右と左を往来する人生の基になる。もちろん彼に「思想」は無かった。しかし「一貫した思考のスタイル」はあったのてある。それはひとり清水だけの問題なのだろうか。
この文章は当初小熊の「〈民主〉と〈愛国〉」の1章としてかかれたのだという。しかし分量の関係から割愛された。そういう意味ではこの本はあの大著の外伝という性格を持っている。清水に対する問題意識はそのままこの大著の中で十二分に展開されるのだろう。
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