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2004年08月08日(日)
「古代吉備を語る会」出雲西部への旅04.05.30

5月30日に行われた「古代吉備を語る会」は、去年の出雲東部に引き続き、出雲西部地域の見学バスツアーです。

安来の料金所を通りすぎ、宍道から高速を降りて、国道54号線を山方面に上がっていくと、右手側に加茂岩倉遺跡の看板があります。ここで39個もの銅鐸が偶然発見されたのが96年、たった8年前です。とはいっても私は当時の熱狂をあまり覚えていません。まだ本格的に考古学に入れこんでいなかったのだと思います。当時、駐車場は遠く、延々数キロ歩いてこの不思議な谷に来たそうです。いまでは駐車場もあり、アザミ咲き、蛇イチゴ実る畑道を一キロほど歩くと遺跡に着きます。

2年前に私がふらりと見学に来た時には無かったガイダンス施設が完成していました。そこから谷の反対側を眺めると遺跡が見えます。39個もの銅鐸が本当になんでもない谷の斜面に埋められていたのだということが分かります。現在その「場所」では、ショベルカ−が「ごろごろ出てきたのはバケツではなく銅鐸かしら」と気づいて工事を止めたまさにその瞬間の状況をレプリカで再現しています。埋めたままの状況で残っていたのはわずか2組4個でした。あと1分気が付くのが遅れたらそれさえも破壊されるところでした。荒神谷遺跡がすでにあった島根県だから工事の人もピンと来て残ったのだとも言えるでしょう。銅鐸は小を大の中に入れる「入れ子」状態で埋めていました。銅鐸のすぐれた絵画性、荒神谷遺跡の銅剣にもある「×」の印(出来上がったあとでタガネで付けたらしい)、ほかの地域との関連性、解くべき「謎」はあまりにも多い。それがこの遺跡の特徴です。専門家はともかく素人の我々は好き勝手な事を考えればいいのだから「ドキドキ」します。

最大の謎は、なぜこんなにも多くの銅鐸がここに埋められたのか、という事です。案内してくださった島根教育委員会の西尾克巳氏は「(ここが特別聖なる場所だったことは)まったくない」といいます。聖なる岩「いわくら」は山を隔てた向こう側、神の降りる山「かむなび山」の仏経山はこの場所から見えない。川もない交通から遮断された場所です。銅鐸が入っていたのと同じような袋状の穴が、すぐそばにもう一つあったといいます。それを基に、諏訪神社のように何年かおきに埋め変えをして祭りをしていたのだという説を唱える人が居ますが、私は「聖なる場所」でないところでそんなことをするとは思えません。その穴は木製祭祀とかの有機物が埋められていたのでしょう。私は(かってに)断言しようと思います。『39個の銅鐸は、銅鐸祭祀を行っていた勢力の衰退あるいは滅亡を前に、「隠された」か「捨てられた」のである。』『荒神谷の銅剣銅鐸もほぼ同じ理由で埋められていたのである』あそこも「聖なる場所」から無縁でした。そして『そのあとにこの一帯を支配したのが西谷墳墓群の首長たちであった』西谷墳墓群から一つの銅剣銅矛銅鐸も出ていない事がそれを証明してないでしょうか。加茂岩倉も荒神谷もまったくの偶然で見つかった遺跡です。青銅器を埋めている場所がこの二ヶ所だけだったという想像はかえって不自然でしょう。必ず他にも青銅器は埋められていると思います。確かにこの辺りは弥生中期から後期初頭にかけて、倭国有数の青銅器祭祀を行っていた場所だったたのでしょう。西谷墳墓群の人たちは『鉄』を背景に強い力を持っていたのかもしれない。しかし青銅器祭祀の人たちは自ら変わったか、あるいは争いごと無く、彼らに支配権を譲ったような気がします。当時の争いごとがあった事を示す遺跡が無かった事がそれを示しています。

いや、一つ気になる遺跡があります。ここの地域から完全に離れた出雲東部に、三重の環濠に囲まれた祭祀のためとしか思えないような小高い山、この遺跡と同時期に作られた田和山遺跡があります。ここの青銅器と田和山で使われた青銅器はたぶん違うものだとは思いますが、あの三重の環濠は何かの緊張状態を示しているのかもしれない。

いけない、いけない。妄想が暴走していますね。閑話休題。もとに戻ります。

そのあと、荒神谷遺跡に行きました。バスは回り道していきますが、加茂岩倉からは直線距離にして3.4キロしか離れていません。今から20年前(84年)農道の事前調査のときに358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が見つかったとのことです。ここもなぜ埋められていたかは『謎』です。しかもなぜかすぐそばに浅い穴が三つあります。

特別にすぐ近くまで寄って見せてもらっていた我ら見学隊は『異常』を発見しました。銅矛が15本しかない! レプリカとはいえ貴重なものです。1本の銅矛が盗まれている!「大事件ですねえ」と西尾氏は平静な声で言いました。

昼食をはさんで西谷墳墓群に行く。この遺跡が斐伊川の河口付近にあるのは偶然ではないだろうと思います。この川を上流にたどっていくと近世まで製鉄で盛んだった吉田に行きます。この川はおそらく弥生時代から鉄を産する川だったのではないか。当時の製鉄遺跡はまだ見つかってはいませんが。

西谷の駐車場に行くとびっくりしました。2年前ここに来たときと違い、公園として整備されているのです。西谷墳墓もずいぶんときれいになり(まだ整備中ですが)印象が変わりました。荒神谷もなにやら施設が建設中だったし、加茂岩倉はガイダンス施設が作られていたし、島根県はここ数年、「青銅器のクニ」として遺跡の整備に相当力をいれているみたいです。それはそれで凄いし、岡山県もぜひ見習って欲しいのですが、一方で同じ弥生遺跡である田和山遺跡は病院建設のために潰そうとしました。「遺跡の保存」は基本的には住民の運動がない限りはあり得ない事は肝に命じておきたいものです。

西谷墳墓群は弥生後期の四隅突出墓が6基あります。4号3号は相当大きい。後世の古墳といってもいい位の大きさ高さを備えています。真四角で各隅に突出があるのが特徴。そして吉備との関わりが非常に濃い。特殊器台(吉備から発生した後継祭祀用の器台)の大量出土、二重の棺、大量の朱の使用、剣玉の副葬品が共通なのです。王族同士の婚姻関係があったといわれる所以です。また北陸福井県小羽山30号墳との類似性も指摘されています。

ちょっと妄想モードへ。倭国の乱は「恒・霊の間」(147〜189)といわれています。配ってくれた島根教育委員会が作っている『墳丘墓の変遷表』を見てみると、3、4号は180年代頃、もっとも大きい9号墳は240年頃の造営となっており、吉備の楯築墳丘墓は3、4号墳と同時期、となっているのです。となると、3、4号墳と楯築はまさに「倭国大乱」の真っ只中で造営されているということであるし、加茂岩倉、荒神谷に青銅器を埋め、青銅器司祭が出雲で無くなったのは大乱の直前だということになります。そうだとすると、140〜180年頃、出雲と吉備で明かに倭国大乱に関わる大きな変化があったのです。一つは「鉄」を巡る変化でありましょう。考古学的発見はまだなされてはいませんが。そしてその頃吉備と出雲に新しい世代の「若者」が登場しているはずです。私は突然墓が大きくなったのは葬られた人間が英雄だったとは思いません。葬る側の後継者がそれだけの力を持っていたのです。墳丘墓における特殊器台を使った祭祀はその事を周囲の人たちに認めさせる一大イベントだったはずです。この墓に出土する土器以外にもいろんな人間が葬式に参加したのだ(レーガン元大統領の葬式のように)、とは考えられないか。この葬式で若者たちは「飛躍」する。だとすると彼らがもっとも活躍したのは170年以降でしょう。彼らは大乱を治めるために活躍したのです。楯築と西谷で突然墓を大きくし、葬式という一大イベントを起こし、それがそのまま大乱回避のための仕掛けにもなったのではないか。そしてその頃卑弥呼が擁立されます。果たして彼らは友人同士だったのか、あるいは反発し合っていたのか、この頃いったいどのようなドラマがあったのでしょうか。(卑弥呼を巡る三角関係だとちょっと面白いですね)その後出雲ではさらに大きな墳丘墓(9号墳)が出来ますが、吉備では出来ません。この60年間を一人の若者が生きているとするには長すぎますので、ある世代は盟友同士だったが、ある世代になると反発し合っていたのかもしれません。しかし9号墳の数年後に大和に箸墓古墳が出来るのです。出雲の首長は出雲地域を離れる事は無かったが、吉備のリーダーは各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで3〜4世代は必ず必要ですし、その時代のリーダーの思想を知る手がかりがこの出雲にはあるのです。この半月間私は出雲から帰り、いろいろと妄想が膨らんで仕方ありませんでした。

最大規模の四隅突出墓、9号墳の発掘を是非してもらいたい。それで全てが分かるとは思いませんが。

その後一挙に時代が300年ほど飛んで古墳時代の三つの墓を見に行きました。それはそれは見事な石室で、「観察」という観点では、ここから本番なのかもしれませんが、いかんせん私の興味範囲は弥生時代まで。私のレポートはここまでとさせてください。