今、京都・岡崎の細見美術館では春画展を開催している。江戸時代の浮世絵や肉筆画の中には「春画」と呼ばれるジャンルの膨大な作品があり、その多くは海外に流出してしまっているのだが、今回そうした作品ばかりを集めて展示するという企画が行われているのである。葛飾北斎や喜多川歌麿という名高い人の春画もあるわけで、考えたらそういう大物が春画も描いているというのが面白いのである。
もちろん、社会にそういう需要があるから春画が描かれたわけで、どのような使われ方をしたのかというのは想像してみると面白いのである。もしかしたらエロい男たちのズリネタというおかずになっていたのかも知れないし、女性たちがこっそりと鑑賞していたのかも知れないのである。
一点物の肉筆画を金持ちが注文し、それを密かに眺めて楽しむということもあっただろうし、変態仲間を集めて大鑑賞会をしていたのかも知れないのである。表装した掛け軸などの大型の春画は、どのようなシチュエーションで鑑賞されたのかなどと想像すると面白い。もしかしたら変態男女が集まって大乱交パーティーがその掛け軸の前で行われていたのかも知れないのである。
そこでオレは一つの疑問を抱くのである。このような春画に相当するものは、西洋にもあったのだろうか。もちろん西洋にも「裸体画」は存在するし、それは芸術であるとオレは思っている。ただ、それはあくまで「裸体画」であり、男女が絡んでいる絵ではないのだ。そこが春画との大きな違いである。日本に春画が存在するのなら、西洋画の世界でもそれに相当するものがあったのではないか。もしも存在するならそれはいったいどこにあるのか。誰もが知るような大物画家が、若い頃に生活に困って小遣い稼ぎにエロい絵を描いていたということは全くなかったのだろうか。大女優が若い頃にヌードモデルをして稼いだことを黒歴史として封印するが、それと同じことで大物画家もそれを黒歴史として封印してしまったのだろうか。
日本の春画の特徴は二つある。それは色彩が実に鮮やかであるということと、描かれる男性のアレが巨大であるということである。腕よりも太いアレが描かれるのだ。それを視た西洋人は「日本人はこんなにデカいのか?」と驚愕したことが想像される。実際はそんなに大きくないのである。オレの知る限りではアレの大きさは
黒人 > 白人 > 日本人
だからである。そのあたりの真実は世界中の男を股に掛けたような女性がいればぜひともご教授願いたいのである。
春画は芸術なのか単なるエロなのか。そもそもエロというものは芸術という巨大な概念の中に内包されてしまう一分野に過ぎないのではないか。こんなことを言うと必ず、「エロは芸術ではない」と主張する方が現れる。そして「そもそも江草、おまえがエロすぎるのだ」と指摘されてしまうのである。
確かにオレはどちらかというとエロい人間である。美しい女性の裸体を視ると「うっひょー」と思うだろうし、映画を見ていてラブシーンになるとドキドキしてしまうのである。
そんなエロいオレにとって「春画」というのはとても重要なアイテムだ。こういうすぐれた世界が存在するからこそオレは「エロじゃないんだ芸術だ!」と開き直れるのである。もう誰がなんと言おうと芸術なのである。エロではないのである。美しくすばらしいものなのである。
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