2022年03月27日(日) |
本を読まない馬鹿が作る図書館 |
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安藤忠雄というのは実に迷惑なオッサンである。ただの思い付きでへんてこな建築物を作るわけだが、それは実際の運用面を全く無視していて使いにくいだけではなく日本の気候風土に合ってなかったり、実用性が乏しかったりする。
その安藤忠雄設計で神戸に「こども本の森 神戸」というのがオープンしたが、これなどはその典型である。高さ9メートルの棚に表紙を見せて本が並べてあるが、そんなものどうやって本を手に取るのか。本は「表紙を鑑賞するもの」ではなく「手に取って読むもの」である。馬鹿馬鹿しくて話にならないのだが、安藤忠雄のような無教養な人間にとって本というのはただのインテリアであり飾りである。実際の本の価値は手に取って読めることなのだ。
高さ9メートルの吹き抜け空間の本棚に表紙を見せて並べられた本は、大地震が起きれば落下して下にいる子どもたちを直撃する。いくら絵本のような軽いものであっても、その落差で直撃すれば子どもの首の骨は折れる。震災を経験した神戸市になんて無神経なものを建ててしまったのかとオレはあきれているのである。
しかもこの図書館、子どもたちがいつでも誰でも自由にやってきて本を読むという場所ではなく、ネット予約で90分入れ替え制なのである。子どもは好きな本に出会ったら何時間でも夢中で読むことがあるのに、そこで90分入れ替え制というのは実に馬鹿げたことである。オレは年金生活者になれば図書館で一日中のんびり過ごしたいと思っているが、図書館を効率重視の公共施設ととらえてる連中にはそういう発想はないのだろうか。
図書館というのは大切な施設である。買わずに本が読めるということは、貧しい人でも教養を手に入れるチャンスが増えるということなのだ。住民にとっての大切な公共財なのである。ところがその施設が近年軽視されるようになった。公共の図書館がツタヤのような民間の事業者の運営になった。しかしそこではさまざまな不適切な会計処理が行われ、公金を使って民間事業者が損失を処理していた。図書館司書が公務員として公共の福祉のための働くことと、民間会社の社員が単なる給与所得者として会社の方針のために金もうけに励む行為とは本質的に異なるのである。
オレは本が好きだ。高校生の時は図書委員だったし、当番の係の日ではない時も図書館司書室に入り浸っていた。図書館長の先生はそういう生徒のためにお茶やお菓子を用意してくれていた。そこは一つのサークル活動の場のような雰囲気だった。だから図書館が大好きだし、その文化を守りたいと思っているのである。そうした文化を台無しにする行政手法が許せないのである。
いつのまにか本の電子化が進み、漫画はスマホで縦読みする時代になってしまった。かつて高価だった紙の本は安値で叩き売られている。かつては価値があったものがどんどん価値を失っていくというのは悲しい現象である。
そんな残念な世の中でもオレは訴えたい。本は大切な文化であり、幼少期に良い本に出会うことはその人にとって人生の宝物になるのだと。オレは「100万回生きたねこ」という絵本が好きだ。その本がオレにもたらした人生の価値を今しっかりと味わっている。
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