2022年02月14日(月) |
『鬼滅の刃』の悲しみについて |
携帯用URL
| |
|
以下の話はネタバレを含みますので、『鬼滅の刃〜遊郭編』を視聴されてからお読みになるほうが望ましいと思います。
日曜日の深夜に地上波で放映されていた『鬼滅の刃〜遊郭編』が終了した。内容に関してここで詳しく書くわけにはいかないのだが、その戦闘シーンの迫力や映像の美しさという点で日本のアニメはこんなレベルにまで到達していたんだなと改めて驚かされるのである。そしてこのアニメは、子どもに見せるにはあまりにも悲しい。そこで描かれる逃れようのない悲劇をどうやって子どもは受け止めるのだろうか。少なくとも小学生などには理解不能な世界であるとオレは思うのだ。
以前にオレは「アニメを視て泣くこと」について書いたことがある。それは文学作品でも同じことなのだが、圧倒的な表現力で伝わってくるもの、そして心の琴線に触れるものに出会った時、人は自然な幸福感に包まれたり、あるいはその登場するキャラクターの悲しみを自分のことの受け止めて涙が出てしまう。
主人公の竈門炭治郎は鬼に妹以外の自分の家族を無残に殺され、残された妹も鬼にされてしまうという圧倒的な悲劇の中で鬼への復讐を誓い、鬼殺隊の隊士として鬼と戦うようになる。その悲劇を乗り越える方法を炭治郎は戦い続けることに見出したのである。
一方、遊郭の中でも最底辺の遊女がいる「羅生門河岸」と呼ばれる場所で生まれ、何度も口減らしのために殺されそうになった兄妹が、上弦の陸の鬼となって遊郭に棲みつく。幼い頃はずっと容姿の醜さゆえにいじめられ、後に借金の取り立ての仕事(牛太郎)を生業とするようになった乱暴者の兄と、美貌に生まれたものの、母親が梅毒で亡くなったために梅と名付けられた少女、その二人が貧しさの中で身を寄せ合って生きているという悲劇が涙を誘う。その二人が「鬼となって人間に復讐する」という選択をしたことは自然なことではないのか。二人はそれぞれ「妓夫太郎(ぎゆうたろう)」「堕姫」となって圧倒的な強さを身に着けるのである。
『鬼滅の刃』は楽しいアニメなんかじゃない。悲しい。それも例えようもないほど悲しい物語である。その絶望的な世界の中で健気に戦う竈門炭治郎や鬼殺隊メンバー、柱の人たちの超人的な戦闘力を芸術的なまでのレベルでの映像で描き出しているのである。
大人にしか理解できないはずのこのような世界を、子どもはどのように受け止めるのだろうか。緑と黒の市松模様のマスクをしていたり、柔らかな素材の刀を振り回して「鬼滅ごっこ」をして遊んでいる幼稚園児たちはどんなレベルであの物語を受け止めるのだろうか。
もちろんアニメや文学を「正しく理解した」ということはそもそも幻想であり、人は自分の物差しの中でとらえることしかできない。そしてその理解は自分だけの理解であって全く同じ価値観を共有する人がいない以上、その理解は独りよがりのものでしかないのである。ネット上には『鬼滅の刃』に関して書かれたさまざまな評論が存在し、大学の教員レベルの方も寄稿しておられる。それを読むことでさらに理解が深まることもあれば、いやそれは違うだろと突っ込みたくなる時もある。ぜひみなさんも読んで欲しいのである。
←1位を目指しています。
前の日記 後の日記